« | Home | »

2014/07/14

flora273

 

店に行こうと思い立ったのは、たまたま逆方向の電車に乗ってしまったからだった。単線で切り替えのない市電は上りも下りも同じホームで、ぼおっとしていると間違える。越してきたばかりのころは車窓からの景色を見て慌てたことも多々あったが、久しぶりにやってしまった乗り間違いに自分でも苦笑して、一つ目の駅でホームに降りた。滅多に降りない駅は、どこか寂れたような風情で私を迎えた。

改札を抜けて、目の前の細い路地に入る。かつて大きな紡績工場があって栄えたというが、この道はその頃の目抜き通りだったらしい。ネオンが灯るにはまだ早いこの時間帯にあっても、休業状態なのだとすぐ分かる雑居ビルを抜けて更に奥へ進んだ。記憶を頼りに幾度目かの角を曲がると、ついているのだかいないのだかのぼんやりした街灯が玄関を照らしているのが見えた。

この店を教えてくれたのは父だった。退職後に一人で縁もゆかりもない場所に土地を買い、悠々自適に住んでいた父は、ありあまる暇を路地歩きに費やしていたらしい。身の回りが不便だろうと数年後に移ってきた私を父は一番最初にここへ連れてきた。案内したい場所があるんだ、と言われた時は病院かスーパーかと思っていたから、この猫の通り道みたいな路地を見たときは拍子抜けするやら呆れるやらで、隣で得意げな顔をする父に内心腹を立てたことを思い出す。

錆びたような蝶番の音を聞きながら店に入る。店、といっても何かを商いしているわけではなく、しいていえばサロンか喫茶店のような作りだ。手近な椅子に荷物を置き、備え付けのコーヒーサーバーを操作してマグに注ぐ。お代はその上の籠に入れておけばいいと教えてくれたのも父だった。かつて工場主が開いたこの店は、当時はバアのように使っていたものらしいけれど、現在は有志の篤志家たちが運営する交流スペースになっている。身元さえ確かならば出入りは自由だ。年に数人入れかわりがあるというが、会員数はほぼ一定だという。私は父と入れ替わりにここの会員になった。そして、会員になって最初に持ち込んだのは、父が大事にしていたマグだった。以来、ここでしかコーヒーを飲んでいない。ここにはそういう品がたくさん保管されていて、会員たちは故人を忍ぶために、時々ここを訪れる。

「来てたの」
「うん。しばらくだったね」

いつの間にか隣に立っていた女が拗ねたような目をした。おかっぱの、目のくりくりとした女だ。年齢はよく分からない。三年前に来た時から、この女はほとんど変わっていないように見える。ここの管理人のような顔をしているが、そうではないことを私は知っている。

彼女もまた、会員の誰かの預け物なのだ、おそらくは。

「あなたのお父さんはいいわよね。来てもらえて」

淋しいの、と聞けば淋しいという。連れてかえってあげようか、と言えば首を振る。彼女に会えるのはもう少しだ。私は今日、余命を宣告されてきた。私をここに預けてくれる人は、まだ見つかっていない。

================================================
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

2014/07/14 09:37 | momou | No Comments