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私が小学生の時にはすでに、このテーマにおけることを学習する時間があった。
身近な問題や取り組みとして、『ゴミを分別する』『電気をこまめに消す』と言ったことを先生から教わった。
もっと学年が上がると、日本だけでなく世界各地で起こっている様々な環境問題や要因、そしてどのような国際的協力・対策が行われているかを学んだ。
大学生になると、より専門的レベルでの講義になった。
環境問題には様々な事項があり、気候変動、大気汚染、水質汚染、土壌汚染、酸性雨、砂漠化など挙げだしたらキリがありません。
上に挙げたのは大まかに分類されているだけで、『水質汚染』というたった1つのテーマを取り上げても、水質汚濁、海洋汚染、地下水汚染、赤潮、石油流出など発生した場所などによってより詳細に分類されます。
しかし1つだけ言える確かな事。
それは、どんな環境問題も主たる原因となるのは『人間の活動』によるものだということです。
私たち人類は自然環境を利用して、現在まで文明を発展させてきました。
自分の部屋で音楽を聴きながらパソコンを用いてこの文章を書くことができるのも、まさにこの文明の発達のおかげです。
しかし、自然環境を利用して発展する、何かをするということは、自然環境に負担をかけることでもあります。
自然はそもそも『自己修復性』を持っています。
自己修復性とは、負担に対し自然自身で修復し回復しもとの状態に戻るサイクルのことです。
負担とは、人類が自然環境を利用し発生したことをさします。
簡単な自己修復性の例だと、植物が採取されたあとまた芽が出てもとのように成長することです。
なぜ、環境問題が起こるのか。
それは、人類の活動がこの環境の自己修復性の限度を超えてしまっているためです。
限度を超えてしまったらどうなるのか。
修復するまでの時間が必要以上にかかり、そもそも自己修復が不可能な段階までに至ってしまう。
先ほどの例で言うと、植物が過剰に採取されることでむき出しとなった土壌に雨が降ることで土地が浸食される。
この土地の養分は浸食により貧弱なものとなり、植物が育ちにくくなる。
またこの植物を食べて生活していた動物は、この地での生活が困難になったため、他の場所へこの植物を求め旅に出る。
行きついた先で同じ現象が起こる…
このように、止めようがない負の連鎖を生むことになる。
人類がまだ狩猟生活をしていた頃。
この頃は携帯電話なんてなかったし、人口だって今よりずっとずっと少なかった。
大量に自然環境を必要としなかったのです。
しかし時代とともに人口が増え、産業革命や技術開発が起こり世界中に広がりました。
よく教科書で見た、人口総数と二酸化炭素量のグラフ。
誰がこのグラフを見ても、人口増加または人類活動と二酸化炭素量の関係性を疑います。
しかし、この時代はまだ発展途中。
産業技術などの発展に伴う環境問題に注目または関係性があると気付く人はごく僅かでした。
日本においては、1880年頃に発生した足尾銅山鉱毒事件があり、「日本の公害の原点」ともされる公害事件があります。
日本だけでなく、産業活動が盛んな地域やその周辺において動物の死などと言った被害も認められていたが、この原因が人類の活動によるものだと関連し認知されるまでには至りませんでした。
時代が経つにつれ、人類を取り巻く環境について科学的に調査できるだけの技術も進歩しました。
環境問題が研究者だけの世界に留まらず、世間に注目される大きなキッカケになったのは、1962年にレイチェル・カールソンが執筆した『沈黙の春』です。
経済的豊かさを背景に深刻化していく公害問題。
このように、公害問題から環境問題への広がりは世界の共通認識となり、地球温暖化などの環境問題は世界共通の課題となっていったのです。
環境問題が注目され始め、自国だけでなく国際的な協力関係の下で取り組みが開始されてまだ数十年。
どんなに発展した科学技術も、環境問題を解決するには至りません。
また、環境問題は経済発展にも密に関係しています。
例えば、ここゴロンタロ。
小学校や中学校などで授業の一環として学習するも、実際の学校そのものや家庭などで実施されるにはまだ時間が必要です。
ここでの生活向上と環境保護との折り合いがつかないのです。
私がここで行っている調査とその中での課題について、次回はお送りしたいと思います。