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皆さん、おはようございます。
誰かに何かをお願いする時、
人は手を合わせ、合掌というポーズをとります。
それなりに日常生活に機会はあるのですが、
それは、例えばお金を借りる時だったり、
ちょっと何かを取ってもらう時だったり、
ご飯の時のいただきますだったりします。
それなりに機会はあるものの、
人がそれに慣れているかといえば、
坊主の目から見て、やはり慣れが足りていません。
私のように小さい頃からお経を唱えているような、
いわばどっぷり浸かっている人間からすると、
尚更のこと、足りているとは思えません。
それがどういう時にわかるか、というと、
まずは「合掌しろ」と言ってわかってもらえない時。
別にそこらへんの道で呼び止めた人に、
合掌を要求しているわけではありません。
お寺の行事などでお加持をしている時などに、
お参りに来た人に対して言ってるのですから、
仮にも仏様に手を合わせに来た人たちなのです。
ところが、「合掌して下さい」
そう言っても、キョトンとしていることが多々ある。
仕方がないので、
「手を合わせて下さい」と解説するわけです。
さらに痛感するのが、一般人が得度して、
坊さんの仲間入りをしようという時です。
そもそも得度式というのは、
得度する人、つまり受者は基本的に、
ずっと合掌していることを要求されます。
それもごくスタンダードな、
虚心合掌(こしんがっしょう)という合掌です。
まともな坊さんであれば、
「はい、合掌して」と言われれば、
「はい、元に戻ってください」と言われない限り、
あるいは、その場から立ち去りでもしない限り、
ずーっと合掌し続けているでしょう。
もちろん、「合掌し続けろ」なんて言われなくても、
特別に理由がなければそのまま合掌しています。
しかし、これまで一般人として生きてきて、
何かのきっかけで得度でも、という程度の人だと、
ふとした拍子に合掌を解除してしまうのです。
慣れというのはおそろしいものです。
発心したのが大人になってから、という人なら、
ひょっとしたら気持ちがわかるかもしれませんが、
私のように発心が幼少の頃、ということになると、
解除してしまう神経が理解できません。
うーん、それだけ合掌って日常茶飯事じゃないのね・・・。
そんなことを考えてしまう今日この頃でございました。