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彼女が出て行って初めて、女の子がいかに多くの膜を被っているかを実感させられた。
鏡台の上に残された化粧水、乳液、美容液、洗顔料、アイメイクリムーバー、メイク落とし……喧嘩してそのまま飛び出していったから、いつのまにか増えていたそれらの瓶の多さに最初唖然とし、そして驚いた。一緒に住んでいたのも同然だったのに、彼女がこういう瓶を所有し、肌に塗り、落していたことなど全く気付いていなかった自分に。
ときどきは鼻歌を歌いながらしていたはずの作業なのに、覚えているのはなぜかむっつりと黙りこんで化粧を落としている姿だ。あれはいつのことだったったんだろう。
もう、帰ってこないつもりなんだろうか――鏡の中に映るおれは途方に暮れて、しょぼくれた顔になっていた。
喧嘩の原因はひどく些細なものだった。
いつもなら笑って流せる冗談が引っ掛かり、言いかえした言葉がささくれになり、いちいちそれが引っ掛かって彼女は家を出ていった。「あんたなんか勝手に野垂れ死んじゃえばいいんだ」という彼女の捨て台詞に、「それはお前のほうだろう」と返したのが決定打で、目に涙を溜めた彼女は勢いよくドアを閉めて出ていった。追いかけた方がいいことは判っていた。でも、出来なかった。それをすれば負けを認めるような気がして。勝ち負けなんかじゃないと気付いたときはもう1時間近くたっていて、結局ドアを開けることはせず、彼女と一緒に寝ていたベッドに一人で寝た。いつもなら窮屈だと思っていたのに、なんだか妙に広すぎるような気がした。
今朝、迷った末に仕事に行った。彼女は合鍵を持っていない。開けてほしいからいらないと言って、不便さをむしろ楽しんでいた。だから、今この瞬間にも彼女が外で待っているような気がして、気が気でないまま目の前の仕事をなんとか片付け、残業は明日に回すことにして挨拶もそこそこに会社を出た。まだ18時前だというのにアパートのある駅の改札を抜けると真っ暗で、寒さに襟元を掻き合わせてからマフラーを今日はしていなかったことに気がついた。いつもなら出がけに彼女が渡してくれるのに。
くそ、と悪態をつきながら足早に家を目指し、自分の部屋が見えてくると視線が勝手に泳いだ。探しているのだ。待っている彼女を。待っていてほしい彼女を。おれはこんなに未練たらしい性格だったか、ていうか彼女なんかこれからいくらだって作る気になれば作れるのに、なんで。大体待ってるわけないじゃないか。あんな飛びだし方をしておいて、こんな寒い日に、外でなんて。
でも俺は期待してた、そして期待は予想通り裏切られた。部屋の前には影もなくて、ため息をつきながら鍵を回し、郵便受けに手を突っ込む。ダイレクトメールが溜まっている。彼女がいつも捨ててくれていた広告だのチラシだのを無造作にゴミ箱に突っ込んで、また悪態をつく、畜生。帰ってこいよバカ。
るるるるる。だというのに空気を読まずに携帯が鳴る、るるるるる。なんだよ五月蠅いなちっとは感傷に浸らせよと思いながら舌打ちをしてメールを開く。「ダイレクトメールの捨て方に注意」。
なんだそれ。
素っ気ない彼女のメールになんだか泣きたいような気になってゴミ箱をあさる、果たして彼女からのメモが出てくる。駅前のマックにいると書いてある。
仕方がないから、仕方がない振りをして、おれは今からマックまで走る。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。