皆さま、遅ればせながら、新年おめでとうございます。
新年初回のコラムを担当させていただくなお(平安時代文学担当)です。
本年も、どうぞ当コラムをよろしくおねがいいたします。
お歳暮に始まって、クリスマス、お年賀……
年末年始は贈り物の多い季節です。社会生活を送る上での潤滑油ともいえる贈り物。その重要性が理解されているからこそ、今でもお歳暮などの習慣が続いているのでしょう。
読者の皆さまは、贈り物上手でしょうか?
それとも、贈り物に苦手意識をお持ちでしょうか?
かくいう私は、結構な「贈り物コンプレックス」の持ち主です。
まだ学生の身分のため、贈り物はほぼプライベートなものに限られるのですが、それでも、プレゼントを選ぶのは楽しみである反面、(出来ればセンスの悪い人と思われたくない、という少々の見栄もあって)いつも悩まされています。
また、贈り物はタイミングがとても重要、とよく言われますが、私は、このタイミングを逃して、残念なことになってしまう・・・ということが、よくあります。いくら素敵なプレゼントを用意しても、タイミングを逃すと良さが半減してしまいますよね。
時期を逸さず、適切かつ趣味の良いものを。
・・・・・・ずぼらな私には結構ハードルが高いです。
平安貴族たちのセンスのよさは訓練の賜物
さて、『源氏物語』をはじめとする平安文学作品を読んでいると、しばしば作中人物たちが贈り物を贈答する場面が出てきます。
そして、彼らの多くは本当に贈り物上手なのです!!
(もちろん、虚構のスーパーヒーロ光源氏をはじめとする登場人物たちの趣味が良いのは当然で、作者が理想的に描いたのだ! という面もありますが、実在した人物たちの贈り物の記録を見ても、概して平安貴族たちは「贈り物上手」といいうると思います)
では、なぜ彼らは「贈り物上手」だったのでしょうか?
人間関係がものすごく重要だったから、ではないか、と私なおは考えます。
では、なぜ人間関係がものすごく重要だったのか。
結論的に述べれば、平安時代がとても狭いコミュニティーだったことと、贈り物文化の洗練は無関係ではないように思います。
平安貴族社会の構成員が何人くらいだったか、というのは難しい問題です。
そもそも、どこまでを、「貴族」と呼んで区切るかが難しい(厳密に言えば貴族は三位以上の人々、ということになります。コラムの最後に注をつけましたので御覧下さい)。また、男性貴族の家族を把握するのは非常に困難です。現在と違って、戸籍による管理なども行われていません。夫婦関係も比較的流動的です。超上級貴族で記録が豊富に残っていたり、本人の日記が残っていたりすれば、家族が把握出来ますが、下級貴族になればなるほど、公式記録に残る本人のこと以外分からないのが実情です。ですから、例えば「従五位下藤原○○には、妻妾が△人、子供が□人」などと明確に言うことが出来ないのです。
それでも、おおよそのデータを算出してくれている本があります。
山口博『王朝貴族物語』(講談社現代新書、1994)によれば、天皇の側に侍る上流貴族の数はおおよそ50名~100名、国守など中流貴族を含めると150名~200名ほど、下級官僚も含めた律令国家に仕える官僚の総数は約1万人、家族を含めると約4万人ぐらいだろう、ということです。(『王朝貴族物語』は、平安貴族たちの実情を知りたい方におすすめしたい一冊です。「生身の人間」としての貴族たちの姿と生活がいきいきと解説されています。新書なので比較的手に入りやすいです。)
さすがに、上・中流貴族の家族の数までは示されていませんが、上記のデータを参考に考えてみましょう。
『源氏物語』に出てくる主要な人物は、ほとんどが三位以上の上流貴族とその家族ですが、中流貴族出身の重要な人物も登場します。(ほんのわずかですが、それ以下の階級に属する素性の知れない従者や侍女が活躍することもありますが、それはこの際無視することにしましょう。)
ですから、『源氏物語』の世界が想定するコミュニティーの構成員は、だいたい五位以上、多く見積もっても200名とその家族、ということになります。
少なくありませんか??
しかも。
彼らは皆、「国家」という名の同一の勤め先に勤めているのです。貴族の家に生まれた以上、律令国家での出世にいそしむ以外の選択肢はありません(離脱するには、出家するか死ぬかしかない)。女性の場合は、いかに良い相手(=出世の見込める相手)と結婚し、夫との継続的な関係を築き、子供を産んで、夫に重んぜられるか、が課題です。そして、夫婦関係が安定した後は、夫の出世、息子の出世、上流貴族であれば娘が後宮に入内し天皇の皇子を産むことが出来るか、などといった事柄が、彼女の社会的な地位を決めます。(中流貴族の娘であれば、紫式部がそうであったように、宮中や上流貴族の女房として出仕するという選択肢もあります。)
極論すれば、宮中で働く200名とその家族が、世界のすべてだ、ということになります(中流貴族は国守になって、地方に赴任することもありましたが)。
加えて、藤原氏による他氏排斥の結果、平安時代も中頃になると、彼らの多くが藤原氏、特に高位高官は、藤原氏の中で本流となった師輔の子孫たちが多くを占めるようになっていきます。(高位の子息は成人して出仕した時に、父親の身分に応じて高位が保証されるという優遇制度(蔭位の制・おんいのせい)があって有利だったのです)
想像してみてください。
社員200人程度の会社に一生勤めなければならず、外の世界が一切ない、という情況を。
家族も含めてみんな知り合い、お付き合いは、会社の人とその家族とのみ。社員の家族同士でしか結婚しないから、みんなどこかで縁戚関係が繋がっている・・・しかも、社長と縁戚関係をもった一族が、要職を独占している・・・という情況を。
・・・・・・辛いですよね、絶対。
狭い貴族社会で生きていくほか、選択肢はなく、右も左も知り合いばかり(知り合いといっても、女性の場合は屋敷の奥深くに暮らしていますから直接面識があることは稀です。が、和歌や贈り物の贈答などで人格や教養が推し量られます)・・・しかも、生まれによる階級も固定しつつある・・・。現在の私たちとは違って、平安貴族たちにはグローバリゼーションも価値観の多様性も関係なかったのですから、それが当たり前だと思って生活していたのでしょうが、そうであっても、人間関係の窮屈さは、やはり深刻だったろうと思います。
小さなコミュニティーですから、人間関係は密ですし、情報もすぐ伝わります。お屋敷の奥向きのことであっても、別々に出仕している侍女同士が姉妹だったり親戚だったり・・・(物語にありがちな設定です)
このようなわけで、貴族たち、特に人々の注目を集めやすい上級の貴族たちは、体面と貴族社会における評判にすごくこだわりました。そして、失敗をして皆に笑われること、最悪の場合貴族社会からのけ者にされることを、とても恐れていました。
それゆえに、日頃から人間関係を良好に保つための贈り物の贈答が欠かせなかったわけです。彼らは、頻繁に贈答を行い、「贈り慣れて」いた、といえます。
そして、送り主は、趣味の良い人、気の利いた人である、と認められることが重要でした。趣味の悪い人、と噂されてしまっては本末転倒です。
特別に素晴らしいセンスの持ち主、と賞賛されないまでも、絶対にセンスの悪い人とは思われないように、季節やシチュエーション、そしてなにより贈る相手に適した贈り物を用意することに心を砕くのです。また、贈り物は必ず和歌を添えて贈られましたから、その和歌にも工夫をこらしました。
また、先にも少し触れた通り、女性貴族の場合は夫や家族以外の人目に触れることを避けて生活していましたから、和歌が上手か、字が上手か、贈り物のセンスがあるかは、そのまま本人の評価に直結します。
このようにして、日々センスの良さが競われた結果が平安時代の贈り物文化の洗練に繋がったのではないか、と推察されるわけです。
贈り物に限らず、平安文化は、狭い貴族社会での「みやび」の競い合いによって、より成熟し洗練されたものとなった、といえるでしょう。もちろん、そこには注目を集めることの晴れがましさや、工夫をこらす喜びもあったでしょうが、同時にかなりの緊張を強いられたであろうことも、想像に難くありません。
「はなやか」で「みやび」な平安貴族文化ですが、その「はなやかさ」「みやび」の裏には、人々の並々ならぬ努力があったに違いないのです。
もっとも、『源氏物語』の登場人物の多くは「みやびの天才」とでも呼ぶべき、貴族が身につけるべき洗練を生まれながらに備えた理想的な貴族たちです(虚構ですから!!)。
とりわけスーパーセレブ光源氏は、努力とか根性とかいった、じめじめとした概念からは全く自由です(だからこそ、真に貴族的なわけですが)。
彼らは、実に軽やかに「みやび」を体現して見せてくれます。
次に、その具体例を『源氏物語』から見ていきたいのですが・・・・・・
長くなりすぎたので、一度ここで切ることにします。
変則的ですが、次回(来週)もなおの更新で、「贈り物上手な平安貴族たち②」をお届けいたします。光源氏や紫の上の「贈り物上手」ぶり、それから絶望的に「贈り物下手」な〝あの人〟のことも、ご紹介する予定です。御覧いただければ幸いです。
注
平安貴族たちは、位によって序列が細かく定められていました。臣下で一番位の高い「一位」から最も位の低い「初位(そい)」まで、三十階あります(内訳は、一位から三位まで正・従(「従三位」など)があって六階、四位から八位は正・従を上・下に分けて二十階(「従四位上」など)、初位は大・小を上・下に分けて四階(「大初位下」など))。
この中で、律令が厳密に「貴」と定めるのは三位以上、四・五位は「通貴(つうき・「貴に通う」の意)」とされました。「貴族」を「貴」である人、とすると三位以上に限定されますが、通常は、下級官僚たちも含めた律令官僚とその家族を、広く「平安貴族」と呼ぶことが多いです。ただ、階級が低くなればなるほど、物語にも記録にも登場することが稀になりますから、「平安貴族」のイメージを形成するのは上・中流貴族が中心になりがちだ、ということは指摘できると思います。
「上代文学」担当の諒です。
初回は自己紹介を兼ねて、自分が何をやっているのだったか思い出してみたいと思います。
「上代文学」と言えば、奈良時代以前の文学ということになりますが、なお の中古やタモン の中世に比べて大変資料がすくないです。文学の研究として主に取り扱われるのは大体
『古事記』『日本書紀』『風土記』『萬葉集』『懐風藻』『日本霊異記』・・・
といったところでしょうか。他にも見るべきものは色々あるとご指摘を受けそうですが、とりあえず挙げるとしたら、ということです。
自分が注目する分野を、例えば『萬葉集』の「柿本人麻呂歌について」とか表明できればよいのですが、紹介させていただくには聊か複雑なのであります。そこで、ここでは自身の「上代文学」に対する姿勢というようなものを(勝手に)お伝えしたいと思います。お付き合いいただければさいわいです。
さて、「上代文学」に対して一般的には、素朴な心を素朴な表現で記している、といったイメージが持たれているかと思います。「上代文学」に触れたことのある人のなかには、平安時代のような洗練さもなく、古すぎてとっつきにくいと思う人も居るかもしれません。古くて素朴でおおらかな時代の文学、それは「上代文学」を古典のひとつとして見る時にはとてもわかりやすい評価です。
でも、ほんとにそうなのでしょうか?
既に年末ですが、今年は平城遷都1300年の記念の年でありました。ご存じ「遷都くん」、大活躍でしたねー。みなさま、奈良に行かれましたか?わたしは猛暑に負けず、平城京跡をひたすら歩き、大極殿にも登ってきました。地図上でも広大な規模であることがわかりますが、実際に行ってみると想像以上のもの(体力的に)があります。奈良市内を散策するだけでも当時の都市の文化的な水準の高さが伺えるかと思います。その様式や技術が、当時のアジアで最高の権勢を誇った中国(現)、隣接する朝鮮半島の国々からもたらされたものを基盤としていることはよく知られています。
奈良朝までの文学はそういったものの受容の状況と密接な関係にあります。現存する「上代文学」の編纂に携わった人々の多くが官人やその周辺の人々であるからです。つまり、当時最高の知識人たちであります。中国から様々なもの――学問や技術、体制に至るまで――が輸入され日本で活用できる形に精製されるなかで、漢字も受け入れられ、その使用方法を模索する黎明期を経て、日本のことばを文章として表現できるように練り上げた結果が「文学」であると言えるかと思います。
『古事記』や『日本書紀』には神話や伝承が記載され、古い歌謡が伝えられています。ただしこれを以て「上代文学」に口承での古い文芸形態や民俗的事象を「直接的」に見ることは、「文学」の研究ではされません。「文学」はあくまで意図的に表現された虚構のものです。あることがらが、意識において捉えられ、理解され、再構築されたものです。その段階を探ることは論理的に可能と思い、自身も取り組みたいところですが、「事実」と文章化の間に段階が存在することを無視してはなりません。
そんなわけで、文学を読み解く上で必要な理解を踏まえずに「上代文学」を素朴でおおらかと評するのは、わたしには抵抗がありますのです。何を伝えるために、どのように表現したのか、「上代文学」だからこそ、特に注意したいのです。
上代にはまだ平仮名が成立しておらず、文章は漢字を用いた表記となっています。そもそも漢字は中国でのことばを表記するための文字として成立しました。日本において、漢文のみならず『古事記』や『日本書紀』で見られる歌謡や倭語、『萬葉集』の歌うたまでが漢字で表記されるに至るまでには――日本のことばを記すために使いこなすには――相当柔軟な頭と挑戦が必要であったと想像されます。「上代文学」の研究では、ある語、仮に「こころ」が「己居里(ココロ)」(こんな表記があるのかどうか?多分ないです)と一字一音で表記されていた時に、これが単に漢字の音を借りたものではなく、「心」を「己が居る里」と表現したかったのかもしれない、と追求することも場合によっては必要になります(注 たいへん極端な例です)。ただ音を表記するのではなく、歌なら歌の世界をその表記によってあらわしている可能性があるからです。しかも、それが7世紀の人麻呂の歌なのか、8世紀の家持の歌なのかによって、解釈が変わることもしばしばです。
ちょっと例がマズいせいで、これだけだと恣意的に思われるかもしれませんが、先学の研究において歌や散文に表記・表現の工夫のあることが具体的に証明されています。
文章を書くことに、特に文学的な営為に対してこれほど情熱を注ぎ、創造的であった時代はないのでは?とすら思います。贔屓目でしょうか?
内容こそ異なるけれども、人々が文や歌をつくる時に積む研鑽の度合いは時代に関係なくあると思うのです。
こうしたことを踏まえて、自分は人々の知的な営為の構築について「上代文学」を通して探りたいと思っています。(・・・自分は賢くないのに!という抗議はスルーします。賢かったらこんな命題たてません)
ですので、テーマを定めるとすれば、上代の表現の方法や手法を探る、ということになります。
「上代文学」をとっつきにくいと思われていた方は、よけいとっつきにくくなったかもしれません(反省)。
そして、万が一ここまで読んで下さった方、感謝でいっぱいです。
誤解のないように一応付言しておくと、文学を鑑賞して、「ああ素朴だな」と感じることを否定しているわけではありません!!むしろ、読み手の感動こそが文学には必要だと思います。ただ、古典においては、当時は実は・・・という意外なこともあって、人の感受性や知性は計りしれないものがある、その奥深さをわたしは知りたい、と言いたいのでした。
で、このコラムでは・・・
大きなテーマに臨むための小さなことがらを、自分の興味の赴くままに綴っていけたらと思います。
ふつつか者ですが、なにとぞよろしくおねがいします。
次回は なお かな?おたのしみに!
はじめまして、本コラムで「中世文学」を担当するタモンです。
コラム名の「楽在古辞」の通り、いにしえの言葉にハマッてしまったひとりです。
中世文学を勉強しているなかで、「面白い!」「なるほど~」「これってどういうことなんだろう?」と思ったことを綴っていけたらと思います。
まずは自己紹介を兼ねて、タモンがどんな研究をしたいと考えているのかをお話させていただこうと思います。
中世文学とひとくちにいっても、軍記物、和歌、物語、歌謡、漢詩、連歌、説話、随筆、中世神話、芸能など、じつにさまざまなジャンルがあります。
中世は、ストーリーを描く物語だけではなく、多様な文芸様式が生まれた時代です。たとえば、声に出して謡われた歌謡、大勢の他者との応答のなかで生まれる連歌、絵と文字で表現される絵巻などが挙げられます。文字で表される表現世界だけではなく、人間の「声」、「身体」もその対象となってきています。中世は、メディアの多様化がなされた時代ともいえるでしょう。
そして、それぞれのジャンルは影響し合い、リンクし、共存しています。源平の合戦を描いた、和製ハードボイルド『平家物語』や、象徴美の極地に到達した『新古今和歌集』、戦争を通して死と生を見つめた『方丈記』といった全く異なる文芸が同じ鎌倉時代に成立したという、多様な文化の営みを見つめることが中世文学を勉強する魅力といえます。さまざまな文芸が花開いていく状況は、現代の日本文化と根底でつながっているものがあるのではないかなあ、と思います。
文学研究は書かれたものが対象です。
ただし、最近の中世文学研究全体の動向として、狭い意味での「文学」を取り扱うのではなく、日本語学や歴史学、美術史といった研究領域と関わりを強くしながら、中世日本の文化をあつかうものへと変化しているといえます。中世日本の文化を考えるうえで、書かれたものから、書かれていないものを探ろうとする動きが活発に行われています。これは、中世人の精神性、つまり中世人の「心」を追究しようとするひとつの方法といえるでしょう。
中世人の「心」って……、どういうこと?とお思いになると思います。
現代の私たちから見ると、中世人の行動が不可解に見えることが少なくありません。これは、信仰と宗教の力が大きく関係してきます。戦争・飢饉・天変地異…あらゆる災いが頻繁に起き、ひとりの人間の命がずっと軽かった時代には、神や仏の存在がとても大切でした。
明日死ぬかもしれないという毎日のなか、中世人が何に怒り、悲しみ、喜び、楽しみを見つけたのか。
戦争が我が身にふりかかってくるかもしれないという恐怖。でも、平凡な毎日を送っている限り、どこかで他人事とも思ってしまう自分。
「中世」という過去に起きた現実は、今、世界のどこかで起きている「現実」ともつながってくるのではないでしょうか。
そのように中世と現在のつながりも見つめながら、コラムに書かせていただこうと思っています。
ここまでつらつらと書いてきましたが、タモンが勉強しているのは「芸能」の分野です。とくに、伝統芸能のひとつである能・狂言について勉強しています。
なぜ、能が「文学」研究なのか?、と疑問に思う方もいらっしゃると思います。室町時代に世阿弥によって大成された能は、比較的早くに芸事が体系化され、伝書(能楽論)が著されました。世阿弥もたくさんの伝書を残しています。つまり、作品の台本や、能役者の技術を伝承するための伝書、もしくは囃子事(演奏)の譜面(のようなもの)が記されていったのです。能の研究は、日本では中世文学研究のカテゴリーに分類されますが、近年、パフォーミングアーツ、美術史、心理学、建築学などのさまざまな角度からのアプローチもされています。
能・狂言を勉強していくなかで、タモンがどのようなことに興味を持っているかというと、「中世人はどのようなことに救済を求めたのだろう?」ということです。能・狂言には、神や仏、亡霊がたくさんでてきます。能には、登場人物が神や仏に救いを求める作品が多くありますが、なかには、神仏の持つ超越した力を否定する作品もあります。中世人のもっていた「現実感覚」がすごく気になるのです。神や仏が身近な時代、彼らは現実・夢、幻、奇蹟をどのようにとらえていたのだろう……。
能・狂言は、さまざまな文芸を元ネタにして作品が創りあげられています。『源氏物語』『伊勢物語』『平家物語』などの有名どころはもちろん、絵巻、和歌、伝承などじつにさまざまです。能は、文芸の「いいとこどり」なんです(笑)。ですので、どんな作品が能・狂言にはあるのかなども、ご紹介していきたいと思っています。
それでは、次回は上代文学担当の諒です。是非そちらもご覧ください!
Junk Stage 読者の皆さま、はじめまして。
本コラムで「平安時代文学」を担当するなおです。
『源氏物語』を中心に勉強中です。連載初回、ということで自己紹介を兼ねて、『源氏物語』研究者(見習い中)が、どのようなことをしているのか、少しばかり紹介させていただきたいと思います。
初めてお会いした人に自己紹介として、大学で『源氏物語』を勉強していること、プロの研究者を志していることをお話すると、(但し研究者として職を得られるのは、ごくわずかの極めて優秀な人々に限られるので、必ずしも目的を達成できるか定かではないことを、もごもごと言い訳することも忘れないのですが)、しばしば、「では、将来『源氏物語』の現代語訳をお出しになるのね」と言われます。
瀬戸内寂聴さんの現代語訳が、現在の『源氏物語』ブームの火付け役となったこともあって「『源氏物語』の勉強=現代語訳をすること」というイメージがあるのではないかと思います。
(ほぼ同時期に、歌人の尾崎左永子さん、その後古典エッセイストの大塚ひかりさん、「リンボウ先生」の愛称で親しまれている林望さんの新訳などが刊行されましたね。作家にとって一度は挑戦してみたい大仕事、なのかもしれません。)
さて、「研究者見習い」の身である私を励まして下さる方々のお気持ちはありがたく受け止めているのですが、結論的に言えば、『源氏物語』研究者が現代語訳を出版する、ということはほとんどありません。研究者が注釈作業を行う際に、物語本文の意味を正確に理解することを目指して、現代語に訳すことはありますが、あくまで原文の理解の助けとしてであって、それ自体が「文学」として試されている作家の方たちの現代語訳とは性質的に異なるのです。
ごくおおざっぱに分類すれば、
作家による現代語訳:現代語訳だけを読んでも、読みやすく美しい。
原文を多少、変更・省略・加筆することが許される。研究者による現代語訳:原文をそのまま現代語におきかえることで、研究者自身の解釈を示し、読者の読解の助けとする。
正確さ第一!!(読みやすさは二の次・・・)
といったところでしょうか。
(作家の訳が正確ではないということではなくて、あくまで立場と優先順位の違いです。文学性と学術的な正確さの両立のための試みとしては、例えば『瀬戸内源氏』が研究者による語句の解説等を付したことがあげられます。高木和子さんという第一線で活躍する研究者が『瀬戸内源氏』に協力しています。)
では、『源氏物語』研究者(見習いも含む)は何をしているのか?
実は一言では言い表せないほど、近年の『源氏物語』研究は多様化しています。
物語の背景にある歴史的な事実や慣習の分析、物語と和歌の関係についての研究など、従来からあった方法に加え、ジェンダー論・身体論など欧米の理論を導入しての研究、また、物語だけでなく「源氏絵」(物語の場面を描いた絵)の研究など、実に多方面に渡って研究が行われるようになりました。
ちなみに、『源氏物語』研究者(見習い)であることを表明した際の、相手の方の反応として、「将来は現代語訳!」の次に多いのは、「『源氏物語』を読んでみたいのですが、どの現代語訳がおすすめですか」という質問ですが・・・・・・
率直な返答を申し上げると「分かりません!」
『源氏物語』研究者は、物語の原文を(つまり紫式部本人が書いた文章、に近いと信じられている文章を←説明すると長くなるので端折らせてください・・・)読むことを生業としています。54帖もある原文と、累積した先行研究、その他諸々の関係資料を読むだけで精一杯、新たに54帖×X回分の現代語訳を読む余裕はない、という研究者及び見習いがほとんどだと思います(私だけじゃないはず)。ですから、本屋で源氏物語現代語訳の新刊が出ていれば、気になって手には取ってみますが、なかなか買って熟読して、どれがおすすめかを判断する・・・というまでには至らないのです。
とはいえ、最近の研究の多様化の中で、現代語訳の研究に進出する研究者も出てきました。『源氏物語』だけでなく、現代語訳した作家についても通じていなければいけない大変な分野ですが、源氏研究・近現代文学研究双方の立場から研究が盛り上がれば良いと思います。
以上が極めておおざっぱな、『源氏物語』研究者(見習い中も含む)の「お仕事」の説明なのですが、ではお前は何をやっているのか??と問われますと・・・
まだまだ研究の方向性は模索中、なのですが・・・
多様化する『源氏物語』研究の意欲的な諸研究には敬意を払いながらも、私自身はもう少し愚直に物語本文を読んでいくことをしたいなぁ、と考えているところです。(物語のおもしろさは、まず原文の面白さにあるのですから!)その上で、物語を成り立たせている「仕組み」を追求していきたい、というのが当面の目標です。
それから、実際に平安時代に生きた人たちがどんな生活をしていたか、どんなことを考えていたか、気になりませんか?(私は気になります)文学研究・歴史学研究双方を覆う壮大なテーマですが、まだまだ分からない点が多いのです(資料的な限界もありますが)。
色々な資料を使って、細々としたことを明らかにしながら、『源氏物語』の理解の助けにしたいと思っています。このブログにも、『源氏物語』の紹介と併せて、平安文学を勉強し始めてから、私自身がびっくりしたこと、面白いと思ったことを綴っていければと思っています。読者の皆さまに、私と一緒になって驚いたり、興味を持ったりしていただけたら、この上なく嬉しいです。
それでは、次回はタモン(中世文学)、次々回は諒(上代文学)がそれぞれ初回のコラムを担当します。
そちらも是非、ご覧下さい!
Junk Stageをお読みの皆さま、はじめまして。
今回新しく、日本古典文学に関するコラム「楽在古辞—院生が紹介する日本古典文学の魅力—」を執筆させていただくことになりました、らっこの会です。
メンバーは、諒(奈良時代までの文学を中心に担当)・なお(平安時代文学担当)・タモン(中世文学担当)の3名です。
共に「日本古典文学」を専攻する院生でありながら、専門も興味もそれぞれ違う私たち3人が、リレー形式で古典や院生生活に関わるエッセイを掲載いたします。3人がそれぞれの個性を発揮しながら、お互いに刺激しあいながら、日本文学への熱い思いを皆さまにお届け出来れば、と思っています。
ライターそれぞれの自己紹介は、各自初回のコラムでさせていただきます。3人とも全く異なる分野を専攻していますので、「一口に、日本古典文学といっても、色々あるのだなぁ」と感じていただけるのではないかと思います。
ちなみに、コラムタイトルは、「らくざいこじ」と読んでいただければ(そして、「らっこ」と略していただければ・・・私たち3人のグループの名前はここから来ています・笑)と思っていますが、訓読すれば「たのしみはいにしえのことばにあり」。
何百年、あるいは千年以上昔の「ことば」が楽しくて仕方が無くて、すっかり日本の古典文学に魅了されてしまった3人が、なにより「楽しみながら」皆さまに古典文学の魅力をお届けしたい、との思いでつけたタイトルです。その上で、読者の皆さまが私たちと一緒に「いにしえのことば」を楽しんでくださったら、これ以上の喜びはありません。
どうぞよろしくお願いいたします。