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はじめまして、本コラムで「中世文学」を担当するタモンです。
コラム名の「楽在古辞」の通り、いにしえの言葉にハマッてしまったひとりです。
中世文学を勉強しているなかで、「面白い!」「なるほど~」「これってどういうことなんだろう?」と思ったことを綴っていけたらと思います。
まずは自己紹介を兼ねて、タモンがどんな研究をしたいと考えているのかをお話させていただこうと思います。
中世文学とひとくちにいっても、軍記物、和歌、物語、歌謡、漢詩、連歌、説話、随筆、中世神話、芸能など、じつにさまざまなジャンルがあります。
中世は、ストーリーを描く物語だけではなく、多様な文芸様式が生まれた時代です。たとえば、声に出して謡われた歌謡、大勢の他者との応答のなかで生まれる連歌、絵と文字で表現される絵巻などが挙げられます。文字で表される表現世界だけではなく、人間の「声」、「身体」もその対象となってきています。中世は、メディアの多様化がなされた時代ともいえるでしょう。
そして、それぞれのジャンルは影響し合い、リンクし、共存しています。源平の合戦を描いた、和製ハードボイルド『平家物語』や、象徴美の極地に到達した『新古今和歌集』、戦争を通して死と生を見つめた『方丈記』といった全く異なる文芸が同じ鎌倉時代に成立したという、多様な文化の営みを見つめることが中世文学を勉強する魅力といえます。さまざまな文芸が花開いていく状況は、現代の日本文化と根底でつながっているものがあるのではないかなあ、と思います。
文学研究は書かれたものが対象です。
ただし、最近の中世文学研究全体の動向として、狭い意味での「文学」を取り扱うのではなく、日本語学や歴史学、美術史といった研究領域と関わりを強くしながら、中世日本の文化をあつかうものへと変化しているといえます。中世日本の文化を考えるうえで、書かれたものから、書かれていないものを探ろうとする動きが活発に行われています。これは、中世人の精神性、つまり中世人の「心」を追究しようとするひとつの方法といえるでしょう。
中世人の「心」って……、どういうこと?とお思いになると思います。
現代の私たちから見ると、中世人の行動が不可解に見えることが少なくありません。これは、信仰と宗教の力が大きく関係してきます。戦争・飢饉・天変地異…あらゆる災いが頻繁に起き、ひとりの人間の命がずっと軽かった時代には、神や仏の存在がとても大切でした。
明日死ぬかもしれないという毎日のなか、中世人が何に怒り、悲しみ、喜び、楽しみを見つけたのか。
戦争が我が身にふりかかってくるかもしれないという恐怖。でも、平凡な毎日を送っている限り、どこかで他人事とも思ってしまう自分。
「中世」という過去に起きた現実は、今、世界のどこかで起きている「現実」ともつながってくるのではないでしょうか。
そのように中世と現在のつながりも見つめながら、コラムに書かせていただこうと思っています。
ここまでつらつらと書いてきましたが、タモンが勉強しているのは「芸能」の分野です。とくに、伝統芸能のひとつである能・狂言について勉強しています。
なぜ、能が「文学」研究なのか?、と疑問に思う方もいらっしゃると思います。室町時代に世阿弥によって大成された能は、比較的早くに芸事が体系化され、伝書(能楽論)が著されました。世阿弥もたくさんの伝書を残しています。つまり、作品の台本や、能役者の技術を伝承するための伝書、もしくは囃子事(演奏)の譜面(のようなもの)が記されていったのです。能の研究は、日本では中世文学研究のカテゴリーに分類されますが、近年、パフォーミングアーツ、美術史、心理学、建築学などのさまざまな角度からのアプローチもされています。
能・狂言を勉強していくなかで、タモンがどのようなことに興味を持っているかというと、「中世人はどのようなことに救済を求めたのだろう?」ということです。能・狂言には、神や仏、亡霊がたくさんでてきます。能には、登場人物が神や仏に救いを求める作品が多くありますが、なかには、神仏の持つ超越した力を否定する作品もあります。中世人のもっていた「現実感覚」がすごく気になるのです。神や仏が身近な時代、彼らは現実・夢、幻、奇蹟をどのようにとらえていたのだろう……。
能・狂言は、さまざまな文芸を元ネタにして作品が創りあげられています。『源氏物語』『伊勢物語』『平家物語』などの有名どころはもちろん、絵巻、和歌、伝承などじつにさまざまです。能は、文芸の「いいとこどり」なんです(笑)。ですので、どんな作品が能・狂言にはあるのかなども、ご紹介していきたいと思っています。
それでは、次回は上代文学担当の諒です。是非そちらもご覧ください!