« | Home | »

2010/12/25

「上代文学」担当の諒です。

初回は自己紹介を兼ねて、自分が何をやっているのだったか思い出してみたいと思います。

「上代文学」と言えば、奈良時代以前の文学ということになりますが、なお の中古やタモン の中世に比べて大変資料がすくないです。文学の研究として主に取り扱われるのは大体

『古事記』『日本書紀』『風土記』『萬葉集』『懐風藻』『日本霊異記』・・・

といったところでしょうか。他にも見るべきものは色々あるとご指摘を受けそうですが、とりあえず挙げるとしたら、ということです。

自分が注目する分野を、例えば『萬葉集』の「柿本人麻呂歌について」とか表明できればよいのですが、紹介させていただくには聊か複雑なのであります。そこで、ここでは自身の「上代文学」に対する姿勢というようなものを(勝手に)お伝えしたいと思います。お付き合いいただければさいわいです。

さて、「上代文学」に対して一般的には、素朴な心を素朴な表現で記している、といったイメージが持たれているかと思います。「上代文学」に触れたことのある人のなかには、平安時代のような洗練さもなく、古すぎてとっつきにくいと思う人も居るかもしれません。古くて素朴でおおらかな時代の文学、それは「上代文学」を古典のひとつとして見る時にはとてもわかりやすい評価です。

でも、ほんとにそうなのでしょうか?

既に年末ですが、今年は平城遷都1300年の記念の年でありました。ご存じ「遷都くん」、大活躍でしたねー。みなさま、奈良に行かれましたか?わたしは猛暑に負けず、平城京跡をひたすら歩き、大極殿にも登ってきました。地図上でも広大な規模であることがわかりますが、実際に行ってみると想像以上のもの(体力的に)があります。奈良市内を散策するだけでも当時の都市の文化的な水準の高さが伺えるかと思います。その様式や技術が、当時のアジアで最高の権勢を誇った中国(現)、隣接する朝鮮半島の国々からもたらされたものを基盤としていることはよく知られています。

奈良朝までの文学はそういったものの受容の状況と密接な関係にあります。現存する「上代文学」の編纂に携わった人々の多くが官人やその周辺の人々であるからです。つまり、当時最高の知識人たちであります。中国から様々なもの――学問や技術、体制に至るまで――が輸入され日本で活用できる形に精製されるなかで、漢字も受け入れられ、その使用方法を模索する黎明期を経て、日本のことばを文章として表現できるように練り上げた結果が「文学」であると言えるかと思います。

『古事記』や『日本書紀』には神話や伝承が記載され、古い歌謡が伝えられています。ただしこれを以て「上代文学」に口承での古い文芸形態や民俗的事象を「直接的」に見ることは、「文学」の研究ではされません。「文学」はあくまで意図的に表現された虚構のものです。あることがらが、意識において捉えられ、理解され、再構築されたものです。その段階を探ることは論理的に可能と思い、自身も取り組みたいところですが、「事実」と文章化の間に段階が存在することを無視してはなりません。

そんなわけで、文学を読み解く上で必要な理解を踏まえずに「上代文学」を素朴でおおらかと評するのは、わたしには抵抗がありますのです。何を伝えるために、どのように表現したのか、「上代文学」だからこそ、特に注意したいのです。

上代にはまだ平仮名が成立しておらず、文章は漢字を用いた表記となっています。そもそも漢字は中国でのことばを表記するための文字として成立しました。日本において、漢文のみならず『古事記』や『日本書紀』で見られる歌謡や倭語、『萬葉集』の歌うたまでが漢字で表記されるに至るまでには――日本のことばを記すために使いこなすには――相当柔軟な頭と挑戦が必要であったと想像されます。「上代文学」の研究では、ある語、仮に「こころ」が「己居里(ココロ)」(こんな表記があるのかどうか?多分ないです)と一字一音で表記されていた時に、これが単に漢字の音を借りたものではなく、「心」を「己が居る里」と表現したかったのかもしれない、と追求することも場合によっては必要になります(注 たいへん極端な例です)。ただ音を表記するのではなく、歌なら歌の世界をその表記によってあらわしている可能性があるからです。しかも、それが7世紀の人麻呂の歌なのか、8世紀の家持の歌なのかによって、解釈が変わることもしばしばです。

ちょっと例がマズいせいで、これだけだと恣意的に思われるかもしれませんが、先学の研究において歌や散文に表記・表現の工夫のあることが具体的に証明されています。

文章を書くことに、特に文学的な営為に対してこれほど情熱を注ぎ、創造的であった時代はないのでは?とすら思います。贔屓目でしょうか?

内容こそ異なるけれども、人々が文や歌をつくる時に積む研鑽の度合いは時代に関係なくあると思うのです。

こうしたことを踏まえて、自分は人々の知的な営為の構築について「上代文学」を通して探りたいと思っています。(・・・自分は賢くないのに!という抗議はスルーします。賢かったらこんな命題たてません)

ですので、テーマを定めるとすれば、上代の表現の方法や手法を探る、ということになります。

「上代文学」をとっつきにくいと思われていた方は、よけいとっつきにくくなったかもしれません(反省)。

そして、万が一ここまで読んで下さった方、感謝でいっぱいです。

誤解のないように一応付言しておくと、文学を鑑賞して、「ああ素朴だな」と感じることを否定しているわけではありません!!むしろ、読み手の感動こそが文学には必要だと思います。ただ、古典においては、当時は実は・・・という意外なこともあって、人の感受性や知性は計りしれないものがある、その奥深さをわたしは知りたい、と言いたいのでした。

で、このコラムでは・・・

大きなテーマに臨むための小さなことがらを、自分の興味の赴くままに綴っていけたらと思います。

ふつつか者ですが、なにとぞよろしくおねがいします。

次回は なお かな?おたのしみに!

2010/12/25 09:37 | rakko | No Comments