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こんばんは。先週おやすみしちゃったら、なんだかすごく久しぶりな気がしています。
今日は、先日友人と話した際に浮上した「キャラはどこまで作れるものなのか疑惑」をテーマにお話したいと思います!
先ほど疑惑、という単語を使いましたが、そもそもこの話題の発端はわたし自身が認識していた自己像と友人認識のわたし像が結構違っていたということ。
わたしは自分としては「真面目でしっかりものキャラ」だと思っていたのですが、友人曰く「真面目は真面目だが時々行き過ぎて天然の域に突入しているためしっかりものとは言い難い」のだそうで。。。
これは非常に遺憾な評価ではありましたが、でも一面、そういうものなのかなあと思った一件でした。
キャバクラや風俗店は、言ってみれば個人事業主がひとつのお店の中で分割割拠しているようなものです。
当然のことながら、そこではお客様に選んで頂くための個性=キャラクターを作ることが要求される。高嶺の花は何輪あってもいいのでしょうが、容姿で選ばれるほどのビジュアルを持っていない女の子たちは、それぞれ独自の路線を演出することを常に求められているのです。
(もっとも、高嶺であっても親しみやすいとか、高嶺のイメージ通りクールであるとか、その中でも差別化は図られるわけですが。)
そんなわけで、女の子たちは自分の容姿やキャパシティと相談しつつ、自己演出としてキャラクター作りを多かれ少なかれ行っています。少なくとも“売れる”ための努力としては無意識にしてもしているのだろうと思うのです。
わたしはお店の方のアドバイスもあって「文学少女」的な路線をキャバ嬢時代はとっており、例えば髪は流行りの金髪ではなく黒髪のストレートロングでしたし、ドレスも露出こそあるものの大人しいデザインを褒められることが多く、お決まりのヘアスタイルであるスジ巻きもそこまで求められませんでした。正直求められたかったですが、華やかなキャラクターは他にもいるというわけです。
が、「文学少女=真面目でしっかりもの」というブランディングを現在までも続けていられた、というのは勘違いだったと冒頭の一件で発覚。友人だからこそかもしれませんが、「わたしってこういう人間」というのは人の目を通すと全然違ってしまうものなのだなあ、と当たり前かもしれないですがなんだか愕然とするくらいびっくりしたのでした。
あの頃指名をくださっていたお客様は、わたしが一生懸命作ってきた「文学少女」な面ではなく、もしかしたらほかの点を面白がってくださっていたのかもしれない。
作ったものはいずれ本性というか、中身が透けちゃうものなのかもしれない、とちょっと考えた夜でした^^;