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2013/10/06

外国生活で、言葉が通じない事のフラストレーションが、嗅覚アートを始めるきっかけとなった・・・そのことを前回書きました。

あいかわらず、言葉が不自由な状況が多いためか、言葉について考えちゃうことは多いです。今日はその、とりとめのない雑文です。考えがまとまらずにてきとうに書いてる日曜日です。どうぞてきとうに読んでください。

とにかく、言葉でじぶんの感情や気持ちを説明するのが苦手な私。それは日本語であっても苦手なので、語学力の問題ではないんですが・・・

みなさんも言葉によって傷つくことって日常で多々あると思いますが、いったいなんのために言葉があるんでしょうね。

人と人との距離を近くするため? それとも、遠ざけるため?

前者の場合、セールストークだったり、同情だったり、甘いささやきだったり、愛情表現だったり。でもどれもこれも、言葉を介するとけっこう、嘘くさくて陳腐に見えてしまうことも多かったりして。笑顔とか、ハグとかの方が、よっぽどダイレクトに伝わる。

後者の場合、たとえば交渉ごとで相手と自分との距離を取るために使ったり、誰かの訪問を断ったり。一歩使い方を間違えると、凶器にもなるし、それだけで絶縁をも招く。思った以上に凶暴で、とても力強く作用してしまう。

日本と欧米でも、違いがある気がしてます。

日本は「和」を尊ぶ文化で、主語を使わないため、包括的。あたかも既に “I” と “I” が繋がっていて、”We”が初期状態であるかのような。茶室に花が活けてあって、「きれいだね」「いい香りだね」と同調することが前提の文化。一体感がそこにある。

欧米だと、そこがない。関係性はまずはゼロから、あるいはマイナスから始まる。”I”と”I”の繰り返される会話。少しでも相手と近づこうとする力と同時に、相手との距離をとどめておこうとする力の拮抗がそこにある。茶室の花を見たら、「私はあそこの花がとてもきれいだと思うわ。あなたはどう思う?」「僕はこっちの花の方が好きだよ。」といった感じにになるだろう。(誇張も入ってるけど)

欧米言語はビジネス的だと思う。ビジネスの世界でも、見知らぬ相手との利害を “I” と “I” をぶつけあうことで計るわけで。だから、欧米のカップルの会話を聞いてると、日本人的には、ふたりで永遠に商談しているかのようにも聞こえたりする (笑)

会話の主語が”I”ではなく”We”になったとしても、主語を使わない文は成り立たない。日本的な「一体感」というよりは、「連帯感」的な感覚がある。たとえば外に敵があるときに、”we” を使うことで内部の連帯・結束を強める。

「一体感」は、個と個が重なる感じ。「連帯感」は、個と個が並んでる感じ。

なので欧米言語の語学力がいくら上達したとしても、いくらコミュニケーションを取ったとしても、「一体感」が感じられない事に、日本人的には絶望したり傷ついたりしてしまう。もっと鈍感になれれば別なのだけど。

言語とは、千年、万年単位の人類の歴史の表れなのだから、個人の努力ではどうにもならないことなのに。

そういえば長いオランダ生活でも「心の友」と呼べる友達は、不思議とアジアの血が入った人ばかりだった。それは、彼らが「シンパシー」つまり、相手と同調するということが自然とできる人たちだったからかもしれない。純血オランダ人には、これがなかなか難しい。そうしているように表面的には見えても、体の反応としてやっているわけではないのだ。

やはりネイティブである日本語は、私にとっても便利なツールなのだけど、だからこそ、その落とし穴も見える。

スムーズにコミュニケーションが取れるあまり、気を許したとき、不注意な言葉遣いをしてしまいがち。不意をついてつい本音が出てしまったらさあ大変。

それはときに、「一体感」を乱す。それが破局や、破綻に発展することもあると思う。親しい間柄にも礼儀有り、というのはこのことかもしれない。相手を言葉で傷つけるよりは、無言の「間」を保つ方がよっぽど気遣いがある行為かもしれない。

そう、「間」に意味がある。欧米では「間」はどちらかというとタブー。常に主張が求められる。日本語はほんとうに繊細で、微細な言語だと感じる。

・・・など日常的に感じている「言葉でのコミュニケーションの東西」について、とりとめもない散文でした。長文失礼!

2013/10/06 07:19 | maki | No Comments