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2011/03/01

誰もいない教室で、息を止めて、先輩の机にそっと触れた。
彫刻刀で削り取られた誰かの名前、漫画かなんかのキャラクターの落書き、そういうものをわたしはひとつひとつ、指で撫ぜた。誰も来ないという安心感がわたしを大胆にさせた。前から6番目、右から2列目。思い切って座った先輩の席からは教壇が目の前に見えた。先輩はどんなふうに授業を受けていたんだろうか。まっすぐ前を見て、ノートを取ったりしたんだろうか。しただろうな、と思う。あの先輩なら、誰に言われなくたってきっとそうしていただろう。
わたしは意を決して手紙を先輩の机の中に滑り込ませる。

先輩が大学に行かないと知ったのはつい最近のことだった。
驚いた顔をしたわたしに、ミドリ先輩はなぜか得意そうな顔をした。ね、驚いたでしょ?あいつが大学いかないとかホントびっくりでしょ、と繰り返し、わたしもそれに頷いた。だって先輩はなんのテストを受けても10番以内に入ってて、後輩の面倒見も良くて適当に調子もよくて、ハズシも分かってる典型的な優等生だったのに。

「先輩、なんで進学辞めちゃったんですか」
「なんかね、迷ってるんだって。今あいつんち家族とか超大変らしいじゃん」

わたしは頷いた。先輩の家からは最近よくどなり声と泣き声が聞こえてきた。ものを投げたりする音や、何かが割れるような音も。建売のアパートの壁なんて本当に薄いんだということを、わたしはここ数カ月で十分知った。いつの前にか先輩と呼ぶようになっていたお兄ちゃんも、時々動物みたいな声で呻いていた。お母さんは眉をひそめてDVだなんて言うし、お姉ちゃんはうるさすぎて勉強できないと遅くまで図書館に残るようになって、うちもちょっと大変になっている。
でもわたしはやっぱり先輩が心配で、その話を聞いた翌日塾からの帰り道を待ち伏せして声を掛けた。

「大学いかないって、ほんと?」
「まあね。俺、こう見えてけっこう苦労人なのよ」

その言葉が似合わないほどへらっとした顔で先輩は云い、そのまままっすぐ家へ入っていった。厳しい貌をしていた。

ミドリ先輩が言うには、先輩は上京するか就職するかして家を出るつもりらしい。たぶんそうなったら二度と会えない、と思って、手紙を書いた。別に大したことは書いてないけど、でもなんかちゃんと言いたかった。メールじゃなくて、手紙じゃなきゃだめだと思って、かわいい感じのと普通の便せんで迷って結局ルーズリーフに書いた。
先輩はこれを読んでくれるだろうか。
誰もいない教室の中に、体育館から漏れる「仰げば尊し」が響いていた。

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花言葉:感謝、細やかな愛情
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

2011/03/01 07:31 | momou | No Comments