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もう8月も終わりですね。
8月はやはり戦争に関連するドキュメントや映画がたくさん映像でやっていました。
第2次世界大戦のドキュメントなどよく見ました。
最近見たものは、テレジン収容所で音楽を奏でていた演奏家たち。
ただユダヤ人であるというだけで収容所に送られてしまった人々。
このテレジン収容所は、ナチスが国際社会に対して、大量虐殺を覆い隠すための宣伝に利用した特殊な収容所でした。
「総統(ヒトラー)がユダヤ人に街を与えた」
という宣伝文句で、収容所に送られた人々に幸せに暮らしているように演技を強要し、音楽や芝居の文化活動も宣伝のためにある程度認められました。 国際的に有名なユダヤ人芸術家が送りこまれ、他ではありえない芸術活動が送られてたそうです。
テレジンでは子供たちによるオペラ「ブリンジバール」も上演されてました。
その作曲家、ハンス・クラーサはテレジンに来る前のプラハでこのオペラを書いていたが、テレジンにきてから記憶をたよりに書きなおしたとのこと。
作曲家たちは五線譜も自分で引き、最後の最後まで曲を書き、なんとか世に残そうと屋根裏に隠したり、友人を通して知り合いから知り合いに渡っていったそうです。
1944年10月、テレジンに残ったほとんどの芸術家、音楽家、そして子供たちもアウシュビッツに送られます。 ナチスの宣伝映画も撮りおわり、もう演奏させる必要はなくなったからです。
多くの人たちがガス室に消えていってしまいました。
もう1人取り上げられたギデオン・クラインという作曲家。
彼は21才でテレジンに送られました。
テレジンに来る前も、ユダヤ人の音楽活動など禁じられている中で、偽名を使って演奏に参加したり、音楽への意欲を失わない才能を持った人でした。
1944年、彼は若いので強制労働所へ送られます。 労働所へ送られる寸前まで楽譜を書き続けました。
働けるかガス室送りかの選別するとき、ナチスの兵士が「誰かピアノを弾けるものはいるか?」との問いに、ギデオン・クラインは裸でピアノを演奏したそうです。
それが彼の最後の演奏だったそうです。
ギデオンは敗戦のさなか、ナチスの兵士に虐殺されたか移送の途中で亡くなってしまったかで、結局彼の望んだ新しい世の中で演奏することはできなかったのです。29才でした。
戦後生き残った彼の姉が、たまたま見つかった彼の楽譜を、弟の才能を世に出したいという必死の思いで出版しました。
収容所に送られ、いつ命を奪われるかわからない状況の中で、恐怖におびえながら最後の瞬間まで演奏を続けてた音楽家、そして五線譜に思いを残した作曲家。
そんな境遇の中でも音楽に情熱をそそいで、音楽に自分の思いをたくました。
才能あふれる人たちがこころざし半ばで思いを、命を絶たれてしまう。
想像を絶する世界でその気持ちははかりしれないけど、命をかけてやり続けた音楽家の想い・・・・・。
今の平和な世の中で、それでも色々大変なことや苦労することはあれど、でも好きに自由に音楽ができる、そんな幸せにあらためて感謝したいと想うし、そしてさらに自分と向き合い、何のために演奏するのかをちゃんと考えていきたい。
音楽は人々に希望を与え、生きる意欲を与えられるものだと信じているから。