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2013/06/28

皆さん、おはようございます。
東西、この場合東京と関西の歌手が並んで演奏していると、
何かが違う、ということに、
声を突き詰めて考える人であれば気が付くと思います。
もしこれを、元々の実力や素質の差と考える人がいたら、
その人には大きくブーを言っておきます。

関西にいても、東京の風を十全に取り入れている歌手は、
未成熟であろうとも、違和感は感じません。

では何が違うのか。
それは、東京の歌手、これも真ん中より上の人ですが、
ノンヴィブラートである、ということなのです。

おっと、一つお断りしておきますが、
東京の歌手でも、古楽の演奏以外では、
ノンヴィブラートだなんてことはありません。
ちゃんとヴィブラートがあります。

何を言ってるのか、おわかりでしょうか?

物の見方考え方は様々でしょうが、
歌手の歌声というものを考えた場合、
一人の声を、同時に鳴っている2種類に大別することができます。
一番基礎的なところで鳴っている、いわばボディの響き、
それは、喉仏よりも下で鳴っている音と考えて下さい。
そして、もう一つは一番先に耳に飛び込んでくる、
いわば表面的な声や響きです。

どんな歌手にもあるヴィブラートは、
この後者の部分、特にその上辺についている、
装飾的ともいえる、いわゆるヴィブラートです。
これは、演奏様式の問題にも抵触する話であり、
古楽の演奏では、このヴィブラートも抑制し、
限定的に使います。

で、今回話題にしているのは、
前者、つまりボディで鳴っている音での話です。
東京でも中以下、関西では中以上の人でもかなりの人が、
ボディ次元においてもヴィブラートがかかっている、
ということを申し上げたいのです。
これを好き嫌いの問題で片づけることもできます。
実際、好きな人も多いことは事実で、
単純に良し悪し、上手下手で斬ってしまう気はありません。

しかし、人の声を模倣すべく作られているヴァイオリンなど
弦楽器を考えてみましょう。
ボディでの響きはヴィブラートしておらず、
弦を左手指で操作することでヴィブラートを作ります。
たとえヴィブラートをかけたオーケストラ演奏でも、
多少濁るけれども汚い濁り方にまでならないのは、
ボディ次元のヴィブラートはないからです。

いくつもの現場で実感していますが、
ボディまでがヴィブラートしている人が集まって、
合唱などをすると、違うパートはもちろん、
同一パートにしてすでに濁り、
到底同一パートとは思えない修羅場になるのです。
そりゃそうでしょう。
音全体が揺れるわけですから。

西洋音楽の価値観から見て、
少なくとも西洋音楽を演奏するための音としては、
ボディ次元のヴィブラートとノンヴィブラート、
どちらの方がふさわしいでしょうか?

また、ボディがヴィブラートしない人は、
上辺のヴィブラートをコントロールすることで、
いかなる様式の演奏をもすることができます。
しかし、ボディがヴィブラートしていれば、
上辺をコントロールしても・・・いや、
上辺をコントロールすることからしてままならぬのが大半です。

で、これは抜本的な長期の訓練がいる話ではありません。
まず、聴き分ける耳を養って下さい。
耳に飛び込んでくる音の土台の部分に、
ノンヴィブラートのボディがどっしりとあるはずです、
一流の人たちの歌声には。
そして、それを願って下さい。
すぐには無理でも、遠からずその道は開けます。
声なんて、イメージし、望んだようにしか鳴らないのですから。

声の国際化は、まさにこの一点にかかってますよ。
耳の痛い話をズケズケ申しましたけど、
未成熟ながら、私の歌声にそんなヴィブラートはないはず。
(ただし、ガチガチにあがっている時を除く。ww)
私に出来るんですから、素質は遙かに高いものをお持ちの皆さん、
絶対に私より簡単に習得できるはずです。
そんなあたりから、関西を底上げしていきましょうぜ!

2013/06/28 01:07 | bonchi | No Comments