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2011/02/22

最後に会ったとき、彼は捨てられた子犬みたいな目をしていた。
口に出せない言葉の代わりに、白眼なんかほとんどない黒い瞳を潤ませて、ただ私をじっと見ていた。

「御疲れ様です。……まだ、残ってらっしゃるんですか?」

声を掛けられて、はっとした。
時計の針はとっくに集合時刻を過ぎている。フロアに残っているのはこの子だけだった。残業するほどの仕事を降った覚えはないから、一人にするのが忍びなくて待っていてくれたのだろうか。
私は努めて不機嫌な声にならないように気をつけて、笑顔を作った。

「ごめん。もうちょっとで終わると思うから、先行ってうまいこと皆に言っておいてくれる?」
「分かりました。向こうで待ってますので、終わったら連絡くださいね」

頷くと、彼は恐る恐るといった様子でタイムカードを押して出て行った。内心で手を合わせた。どの道今日の懇親会に出るつもりはない。今日は息子の誕生日なのだ。
息子は今年で10歳になる。きっと背も伸びて、生意気な口もきくようになっているだろう。記憶の中のように口をへの字にして、子犬みたいな表情はもうしなくなっているだろか。
私は伸びをして、名刺入れの一番奥にしまってある写真を取り出した。

離婚したのは、家族と仕事を天秤にかけたからだった。
その頃大きなプロジェクトを任されて有頂天になっていた私の帰宅は毎晩深夜を回り、ろくに家事もせず、休日出勤が続いていては子供の世話も出来なかった。私は夫の言葉をうのみにしていた。これからは女が家事をやる時代は終わったんだ、と言った言葉は嘘だったのだ。嘘でなければ、たちの悪い冗談。夫が世話をしてるとばかり思っていた子供はなぜか義母の元にいて、私のことを縋るような眼で見るようになっていた。助けて? 迎えにきて? その意味を図ろうとする前に、ごく簡単な手続きで私と家族は縁が切れた。
プロジェクトを成功させた私には部長のポストが待っていた。そしてそれと引き換えに、子供と夫を失った。

思い出す子供の顔はなぜかいつも同じ顔をしている。
私が贈った時計は気に入るだろうか。それともいらないと言うだろうか。宅急便で送りつけては、息子の誕生日に自棄のような残業をする私のことを、あの子はまだ同じ顔で見つめている。
5年前と変わらない、あの濡れた子犬のような瞳で。
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花言葉:慈悲
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

2011/02/22 10:10 | momou | No Comments