« 仏画×Tシャツという新たな試み | Home | 参院選挙にむけて »
皆さん、おはようございます。
さあ、いよいよ詩人の恋に入ってきました。
通しで演奏するだけあって、
いわばこのコンサートのメインプログラムと言えるでしょう。
では、数曲ずつまとめて見ていきましょう。
曲名と大意を書いていきます。
第1曲 うるわしき5月に
すばらしい5月、花の蕾がみな開くとき、僕の心にも恋の花が咲いた。
すばらしい5月、鳥たちが歌う中、僕はあの人にこの想いを打ち明けた。
第2曲 我が涙より咲き出し花を
僕の涙から咲き出たすべての花を、愛しい君に贈ろう。
僕のため息につられて歌うナイチンゲールよ、あの人の窓辺で歌っておくれ。
第3曲 百合、薔薇、鳩、太陽
薔薇、百合、鳩、そして太陽を僕はかつて愛した。でも今はちがう。
愛らしく、美しく、清らかなあの人を愛することこそ、僕の喜びなのだ。
これが恋の始まりです。
ただ、本当に両想いの恋なのかどうかは疑問。
そもそも、本当に告白したのか?
詩人特有の婉曲な言い回しで、
本人は告白したつもりでも、伝わっていなかったら?
素直じゃない読み方かもしれませんが、
そんな実例を知っているんですよ。
ええ、自分という実例をね。
第4曲 君の瞳に見入るとき
君の側にいると、僕の心は無上の喜びを覚える。
でも、君の「好きよ」という言葉に、なぜか激しく泣いてしまうのだ。
こんなことが起こるのは、
主に夢の中での出来事の場合です。
夢の中というのは、感受性がかなり強いもの。
嬉しすぎることは涙の種になるのです。
夢から覚めた時の落ち込みようといったら・・・。
皆さん、ご経験はございませんか?
第5曲 我が心を百合のうてなにひたそう
不安に満ちたこの心を、百合のうてなに浸そう。
すると百合は愛しい人の歌を響かせ、あの甘いひと時を思い出させてくれる。
第6曲 ライン、その聖なる流れに
ケルン大聖堂にある聖母マリアの絵姿。その眼も、唇も、頬もあの人にそっくり。
あの人の心もこの聖母のように、慈しみに満ちていれば良いのに…。
歌い始まって何分もしないうちに、
早くも不安だらけの状態になるのです。
この早さこそ、実際の交際には至っていないのでは、
という疑問に至らせた最大の原因です。
第7曲 恨んだりしない
僕は決して恨まない。たとえ胸がはりさけても、永久に失われた恋人よ。
君を蝕む魔物を見て、君の心の弱さを知ったんだ。だから決して恨まない。
饅頭怖い、の反対バージョンがいわばこの曲。
恨まない、恨まないとしつこく繰り返しているところが、
いかに恨んでいるかを表しています。
速く演奏すれば若さと勢いを、
遅く演奏すれば執念や情念の強さ、しつこさを表すことができます。
ちなみに、自筆譜では最後の音を1小節余分に伸ばすんです。
はい、私はこれを自筆譜の状態で歌います。
第8曲 かれんな花たちが知ったなら
可憐な花やナイチンゲール、輝く星達がこの悲しみを知ったら慰めてくれるだろうに。
でも彼らはそれを知る由もない。知っているのはこの世にただひとり。
僕の心を引き裂き、踏みにじったあの人だけなのだ。
この曲、テンポ表示がありません。
だからどんなテンポで演奏してもいいのですが、
少し遅く演奏すると、後でお楽しみが待っています。
自筆譜には、後奏だけPrestoの表示があるのです。
いきなり狂ったようにピアノが暴走するんです。
これが良い味出してるのに、おいロベルト!なんで削除した!?
第9曲 あれはフルートとヴァイオリン
僕の空っぽな心に、あの人の甘い吐息と、妖艶な衣擦れの音がこだましている。
今頃はあの家のベッドの中で、まるで婚礼の晩の花嫁みたいに、
官能の渦の中を舞い踊っているのだ。
いきなりすごい大意だとびっくりなさらんように。
これは、現代的に解釈した場合の話です。
実際の歌詞は、結婚式のダンスを遠巻きに見ている感想です。
ただ、踊る、ということにはとてもエロティックな暗喩がつきまといます。
愛する人が踊っている、ということだけでも、
そこにはある種の官能性があり、興奮することのできるものです。
カルメンで、2幕初めの「ジプシーの歌」のことを指して、
ホセが「スニガのために踊ったのか?」と嫉妬します。
あれは、「スニガと寝たのか?」とほぼ同義語です。
その19世紀的表現なのです。
この曲は、現行版の方がそういう色合いが出やすいので、
セレクトする際は現行版で演奏するようにしています。
さて、前半はここまで。
次回は後半を見ていきましょう。