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皆さん、おはようございます。
日本の中には様々な宗教が混じり込んでいます。
それは、ただ共存している、ということのみならず、
一人の人生の中で、いくつもの宗教にお世話になる、
ということは、日本人の皆様にはもはや当たり前かもしれません。
たいていの人は、赤ちゃん時代を神道形式で過ごし、
キリスト教式で結婚し、キリスト教由来の行事で浮かれ、
仏教の儀礼によって死んでいきます。
そして、たいていの場合、その行事にまつわる意味合いや、
その起源、宗教的教訓を知ることなく墓場へ行きます。
このような中で、ある特定の宗教の儀礼しかしない、
という人がいれば、それはかなり珍しいことになります。
あるいは、カルトな信仰に染まれば、そういう人生が待っています。
そして、キリスト教系カルトの信者の手にかかれば、
キリスト教徒が異教徒と結婚することすら、
堕地獄の憂き目を見ることになる大悪業という非難も辞しません。
ある仏教系カルトの経験者いわく、
クリスマスを祝うなら、花祭りも祝え!
これらの人たちは、物事をかなり表面的に見ています。
日本で現在のようなごちゃまぜの信仰形態が普及しているのはなぜか、
その背景やそこから来る豊かな精神性を考慮することなく、
ごちゃまぜにしている行為だけを捉えて非難するわけです。
いいとこどり、と言われたらそれまでなのですが、
ごちゃまぜであることには、なかなかの意味合いがあると思います。
ただし、日本で、日本人(生来の在日外国人)に対してのみ、
その意味はあると思うのですが。
例えば、対照のようにいわれるキリスト教結婚式と仏教葬式ですが、
あれはあれでそれぞれの宗教の特徴を捉えた方法論です。
キリスト教は徹底的に生を扱っています。
死でさえも、来たるべき最後の審判と、その先にある永遠の生、
そこを期待し、見据えた教えが展開されています。
結婚式とは生を扱った儀式です。
結婚する本人たちのこれからの生、
そこから生まれるであろう子供たちの生、
その生が幸せであることを祈る祈祷が行われます。
結婚の誓約というプロセスがあります。
「健やかなる時も病める時も、豊かな時も貧しき時も、
これを愛し、敬い、慰め、助け、
命の限り固く節操を守ることを誓いますか?」
という牧師の問いかけに対し、
「誓います」と応答する、有名な儀式です。
この問いかけの意味は、何らかの理由で、
それが宗教的理由だろうと個人的理由だろうと、
結婚という選択肢を人生から排除している間は、
決して理解することのできない、含蓄のある言葉です。
端的に言えば、言葉尻だけを考えてみると、
そんなことをする気もないかもしれない人に対して、
これを守れ、誓え、と強要しているようなものです。
結婚という形だけが欲しい人の場合も、
いらん規則を押し付けられているように感じるかもしれません。
しかし、心の底からこの人と結婚したい、
という気持ちになった時、
この言葉は自分たちを応援し、後押しし、
守ってくれる言葉に様変わりするのです。
如何なる時も、この人を愛し、敬い、慰め、助け、
この人と生きていきたい、と思うこと、
それが、結婚したいということなのですから。
そして、まさに今、それをこそしたいと思っているのですから。
この点、仏教というのは結婚式にはいささか分が悪いです。
仏教は基本軸を「苦」という点におきます。
ですから、どこをどう取り繕ってみたところで、
上記の、「結婚したい」という気持ちは、
浮ついた意味であろうが、心底そう願っていようが、
それは「渇愛」の一言で片づけることができます。
そこを軸にしてしまうと、説教できることは一つ。
「配偶者にあんまり執着しなさんなや」
これでは結婚式にはなりません。
ですからそれなりにお茶を濁しているようですが、
仏教の神髄を新郎新婦や参列者に味わっていただく、
ということにはなりにくい宗教だろうと思いますね。
人間にとって、自分の死、近親者の死は「苦」の最たるものです。
ですから、葬式になると仏教は息を吹き返します。
逆にキリスト教は、神の許へ、とか何とか言葉はあるものの、
仏教の観点から見れば、気休めにしかならない言葉の羅列になります。
もっとも、仏教だって葬式の時の遺族の状態を鑑みれば、
葬式の時点ではキリスト教のような気休めが中心になるのですが。
真に教えを説くとしたら、四十九日法要以降の、
いわゆる「法事」と呼ばれる儀礼での席になります。
宗教とは人を幸せにするためのもの、という言葉があります。
私は全面的に賛同することは出来ませんが、
ある側面を示してはいると思います。
平然と、安らかに、苦しまずに生きるためのもの、という意味では、
少なくとも日本における仏教、キリスト教は、
その任を果たすのに相応しい宗教であるとはいえるでしょう。
ひたすら心の救いを願うならキリスト教がよかろうし、
修行によって心平らかでありたいならば仏教がいいでしょうし、
選択肢は無数にあるわけです。
このあたりのことを宗教指導者の皆様、
そして信者の皆様、一般人の皆様にはお考えいただいて、
真の意味で豊かで、平和な日本を実現していただきたいと願っています。