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皆さん、おはようございます。
まずはご報告を。
昨日、ほわっとオペラ「フィガロの結婚」が
盛況と好評のうちに終演致しました。
関係者の皆様、お客様方、
そしてご声援いただきましたすべての方々に、
心より厚く御礼申し上げます。
反省点は色々ありますが、
このタイトルにおいてそれをすることは
私の意図するところではございませんので、
省略させていただくとして、
このフィガロ、及びバタフライについて、
その主題が「差別」に焦点を当てており、
その他の作品でも「差別」がたびたび顔を出す、
私の演出の要となっている理由について
解説申し上げて、このシリーズを終えたいと思います。
度々、再三再四申し上げておりますように、
人間とは「差別大好き動物」です。
人間以外の動物にも差別的なことはありますが、
それらが生きるための弱肉強食として存在しているのに対し、
人間の場合はそれ以外のところに理由があるように思えます。
つまり、弱肉強食の結果としてある差別ではなく、
本当に好きでやっている、という印象があるのです。
そして、人間と人間、集団対集団、国家対国家での問題は、
差別ということがその根本になければ生じない、
あるいは一時的に生じてもすぐに解決する、
そんな風に思うのですが如何でしょうか?
弱肉強食において、強者が弱者を食料として確保したところで、
それは強者が食料を確保した安堵感があるだけでしょうが、
人間はそれ以上に、自分が優位であることなど、
形でないことに関しても喜びの意識を持っているようです。
そして、建前として差別が許されない間柄に対しては、
いじめという形で差別行為が表現されることになります。
このあたりのことは「こうもり」で描くつもりです。
(そう、楽しいオペレッタのはずの「こうもり」で!)
カルメンというオペラは、
スペインに支配されているバスク地方出身のホセと、
ヨーロッパ全体で差別されているロマのカルメン、
日本人にわかりやすく置き換えるなら、
戦前、戦中の日本において、
在日朝鮮人の男と被差別部落出身の女の泥沼、という
スキャンダラスである以上に、汚らわしく思われる事件、
そういう風に考えると事の性質が理解できるはずです。
汚らわしいと思って見ている観客がいれば、
その人の差別意識さえ作品で糾弾されるわけです。
こんな風に、オペラというのは実は「差別」の宝庫です。
そもそもオペラなんていうものの成立背景にあるのが、
差別を下敷きとした貴族社会なわけですから。
そしてそんなオペラを使って糾弾されるのが「差別」、
何とも皮肉なことですね。
でも、私はこれを貫きたいと思います。