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前回の記事でも触れたが、先日医療系出版社が発行する雑誌の取材をお受けした。
これまでにもいちおう取材というかたちのお仕事はあったけれど、それはあくまで医学的知識の提供という役割であって、自分のことをお話させていただく取材ははじめてだった。
その取材で一番難しかったのが「朽木さんが医師を目指したきっかけはなんですか」という質問だ。
医学生をしていると、患者さんなどから尋ねられることは間々あるのだが、じつはこれはけっこう答えにくい質問でもある。どうして答えにくいかの説明は後回しにするとして、医学生がいちばん最初にこの質問を意識するのは、おそらく医学部受験の面接だろう。
現行の入試制度においては、ほとんどすべての医学部で、試験科目として面接が課せられる。
医学部受験生はけっこうこの面接を意識したり心配したりしているようだけれど、実際にはこれはあくまで補助的なものだ。すなわち、筆記試験ができなかったから面接で一発逆転、みたいなことはふつうにない。
まあ、その逆はありえる(つまり悪印象で落ちる)のかも知れないが、それはたとえば面接の場で「人間が死ぬところをたくさん見たいからです」などと、とてつもない嗜好を吐露してしまった場合だろう。
たいていは、筆記の出来がおなじくらいの受験生がいたとして、その合否判定の参考にする、その程度だ。
志望動機としてはよく悪し様に言われる「親が医者だからです」とか「高校の成績が良かったからです」とか、正直すぎる理由を平然とのたまったとしても、別にそれで不合格になることはない。
あとは緊張のあまりうまく喋れなくなったとしても、やはりそれで不合格になることはない。
面接は、よほどの異常性格でもないかぎり、ほとんど問題にはならない。もちろんある程度以上の対策は必要ではあるのだが、気にしすぎるくらいだったら勉強したほうがいい。未だに医学部は狭き門である。
しかし、なぜ医師になりたいのか、というような質問くらいは、医学部受験生なら想定の範囲内でなければいけない。面接で間違いなく尋ねられるからだ。あるいは、どうしてこの大学なのか、という質問。面接はたいていこのどちらかで始まる。
面接という場で「親が医者だからです」と答えて顧みないなら、それは多少人格に問題があるかもしれない。
しかし、例えば「親が医者で、小さい頃から患者さんに感謝をされている姿を見て、社会に必要不可欠な尊い職業だと思ったからです」と言えばどうか。素晴らしい模範解答だ。
「高校の成績が良く、教師から医師という職業を勧められたときに、理系かつ生物系という自分の志望と一致し、また社会的ステータスが高く収入も良い現実的な職業選択であると考えました」と答えたとしても、おそらく面接官には悪印象を与えない。
要は、その発想のプロセスに一貫性があり矛盾がないかどうか、医師という職業を夢や理想だけでなく現実的に捉えているかどうか、入学後のカリキュラムに耐えうる人材であるかどうかが評価されるのだ。
むしろ、面接で医師という職業に対する熱い想いをとうとうと述べた場合、時間があれば意地悪な質問の集中砲火を浴びるし、時間がなければ流される。考えれば自明だが、面接官は医師という職業の酸いも甘いも知り尽くしているのだ。
「忙しすぎて家庭崩壊しちゃう医者もいるけどどう思う」「命を救いたいって言っても救える命ばかりじゃないよね」「理想のわりには高校の成績が悪いようだけど」などなど、受験生の息の根を一瞬で止めるリアクションは枚挙に暇がない。
まあ、ポイントはそんな質問をされても上手に返せるかどうかなんだけれど。そして、もしそこであわあわしてしまっても、筆記試験の成績がよければ合否にはあまり影響しない、ということは強調しておきたい。
ちなみに、僕の受験のときは、隣りに座った男性が大卒脱サラの4回目の受験生で、社会に必要とされない仕事に挫折したこと、会社を辞めてユーラシア大陸を放浪したこと、イスタンブールで医師になって社会に必要とされようと決心したことなどを身振り手振りも交えて語っていた。
グループ面接だったので、そのときのことはよく覚えている。うっすら汗までかいて、満足気に演説を終えたその脱サラ氏に、面接官のひとりが微動だにせず尋ねたのだ。「トルコと医者ってなんの関係があるの」
そこからはもう大変だった。本当のパニックに陥った人間の顔を、僕はそこではじめて見た気がする。面接官たちは容赦がなかった。曰く、「一般の仕事に挫折したのに医者なら挫折しないのはどうして」「どんな仕事でも社会には必要なんじゃないの」
「あなたもう30歳超えてるのに夢や希望ばかりで人生設計はどうなっているの」
面接前に、お互い頑張ろうね、などと宣言してグループ全員に握手を求めてきた彼は、面接終了後、なにごとかをブツブツとつぶやきながら、おぼつかない足取りで会場を後にしていた。
すっかりはなしが逸れてしまったが、僕が言いたいのはつまり、受験生が考える医師の理想と現実にはだいぶ差があり、すでに医師であるものはそれを知っている、ということだ。そして、医学部受験の面接でもないかぎり、それを問うこと自体がナンセンスだと分かっている。
その証拠に、実習などでお世話になっても、医師から「なぜ医師になりたいのか」などと質問されることはほとんどない。聞いてもしかたがないからだ。だったら、β遮断薬適応の禁忌はなにか、とか質問したほうがいい医師が育つだろう。
忙しくて稼げない科から楽に高給を取れる科まで、ひとくちに医師といえど千差万別あり、さらに身を削って働いても万人に感謝されるでもなく、また目の前ではたくさんの患者が死んでいく。医師という職業にはネガティブな側面がたくさんある。
熱ければ熱いほど、そんな冷水を被ったときに、大きな亀裂が走ってしまうのではないかと危惧するのは、面接官の意地悪ということだけでは決してないのだ。
僕は、ただ意識が高いだけの人間が、必ずしもいい医師になるとはかぎらないと考えている。
いい医師の条件とはまず医師としての技量がしっかり身についていることだろう。どんなに医療のことを熱心に考えていても、それだけでいい医師になれるわけではないはずだ。
熱意はあるに越したことはないが、まずは医学部において6年間、医学を学び抜く素養があるかどうか、そのほうが重要ではないか。
医学生のなかには、医療を考えるセミナーのようなものに積極的に参加して、まるで革新派の活動家のようになるものが一定数いるし、それに憧れてできたようなサークルがたくさんある。しかし、活動に熱心になるあまり、肝心の学業が疎かになったり、留年を繰り返したりする。
薄気味のわるい世界だと僕は思う。熱心だが医学的知識に乏しい医師と、冷淡だが医学的知識に長けた医師、あくまで比較の議論になるが、いい医師とはいったいどちらだろうか。
僕がこのように思っていることからも分かるとおり、医学生もまた、かつて自分が抱いていた理想と現実の乖離に気がついている。とくに上級生になればなるほど、実習などで医療現場との関わりが深くなり、その傾向も強まる。
ボロボロになるまで働く医師、医師嫌いの患者、あるいは病院と病院の対立、コメディカルとの関係など、医師に憧れるだけの受験生にはとうてい想像もつかないようなことが、現実には日常茶飯事となっている。
僕のように、親が医者でもなく、高校の成績もよくはなく、なんとなく医師に憧れていたようなタイプは、だからこそ、あらためて「どうして医師になりたいのか」と尋ねられると、戸惑ってしまうのだ。
だから僕はいつも、「もう医師にしかなれませんから」と答えることにしている。
かつて僕が医学部受験の面接でどんな受け答えをしたか、もうほんとうに覚えていない。
祖母がなくなったときのありきたりなエピソードを話した気がするが、定かではない。後日面接官の教授に尋ねても然りである。やはり、医学部受験の面接において、このような質問はそれほど重要な意味を持たないようだ。ならば、粛々と答えてやればよい。
どちらかというと、「なぜこの大学なのか」という質問のほうが、評価のうえでの重要度(あるいは地雷率)は高いと思われる。
ただし、「どうして医師になりたいのか」を今も考え続けることだけは、自分がその場所に立つ意味や根拠を確たるものにするという点で、重要だと思うのであるが。
最後に、その取材でおはなしした僕の回答を掲載しておきたい。
>医学部に入りたいと思うことと、医師になりたいと思うことと、そのふたつが手段と目的として折り合いがついていれば素晴らしいことだとは思いますが、僕は決してそういった、健全なタイプの医学生ではありません。
>医師になりたいという思いはかつて、おそらく小さな子どものころには持ち合わせていたのでしょうが、どうしてそんなことを思ったのかはもう忘れてしまいました。多分、海外の医療ドラマかなにかに憧れたみたいなチープな話です。
>僕は浪人も長く、受験のときは世間一般に高学歴とされる一職種として医学部を志望していましたし、現在は医学部でも高学年になり、夢や希望といった意識の高いことより、良くも悪くも現実的な視点で医療を考えるようになってしまいました。
どうして医師になりたいと思ったのかは、今や恥ずかしくてとても答えられたものではない。たぶん『ER』というドラマだろう。決して『救命病棟24時』や『コード・ブルー』でなかったことは言い訳させていただきたいのであるが。
動機はほんとうにチープだったけれど、すくなくとも僕はいい医師になりたいと思っている。