« 弘法筆を選ばず-choreographyを残すために-③ | Home | ■エルサレム旧市街にて »
傷つくことが無かったなら
或いは傷ついたからこそ現れたものなのか
果たして写真は傷の向こうまで届くのだろうか.
僕は作品撮りの場合は、募集をかけさせてもらったりしていますが、
実際には個展やブログを観てもらって、メールやお手紙いただいたりしながら
ご連絡いただいた方と撮影することがほとんどです.
そこにはいろんな声が集まりますが、僕の場合は作品がそうさせている..
「呼んでいる」とよく言われることがありますが、
やっぱりメンタル的な部分で解けない想いを抱えている方が多いのも事実です.
人間生きていれば様々なことにぶつかります..もうダメだという瞬間が何度もある..
それはメンタル云々ではなく、誰かから視た傷つきやすい、強い弱いというのも
案外アテにならなくて、たぶん特別視されたりもするようなことでもなくて
むしろ愚直なくらいでいいと思います.だって、痛いものは痛いのだから…
何の起伏もないただ約束された人生だったなら
それはそれで幸せなのかもしれないけれど
そんな安全圏の幸せとは別次元で、迷いや戸惑いを感じたままの心を
自身で持て余してしまってどうすることもままならない
信じられる確固たる何かを求めてしまう..そして求めては失う…
それは気付かない人は一生かかってもたぶん気が付かないこと
逆に言えば、そこに気付けた人だからこそ..のものだってきっとある.
それ故に傷ついた自分をもっと傷つけてしまったり、傷跡となって
ずっと残ったりする..それが「見える傷」でも「見えない傷」だとしても…
賢い人たちがどんどんと上手に前に進んでく気がする
不器用な自分はいつまでたっても不器用なまま時間だけが
過ぎていく気がする.何故だろう、どうして自分だけが…
そこに甘い「罠」があるように感じます.「自分だけが」と思うのはすごく楽です.
だけどそこで自分で自分を特別視していてはどうにもならないように感じます.
かつては僕もそう思っていました..血を流すこと、血に模したものを
直接写真にすることでどうだ痛いでしょう?こんなに僕は痛いんです
わかったでしょ?わかってください..わかるはずです…と.
例えば被写体さんの腕に傷がある..僕はそのことそのものは
特別重要ではなくて、だからよりドラマチックになるとか
劇的な物語が産まれるのではないと思っています.
でも、写真であるからにはそれはどうしても写ってしまうし
それで「ああ、そっち系の写真ね」と済まされてしまう…
そのことは写真撮る人、写った人、観た人の関係を
ただ安直にするだけのものではないか…
それが演出、コンセプトで、というものは別だけど
「傷」を演出の小道具の様に扱ってはいけなくて
もっと慎重に触れられるべきもので、それは撮る側も撮られる側も、
そして観る側もきっと同じなのかなと思います.
いつも思うことはその傷がなくったってきっとその時の表情は
その人だけのものだと思うし、「見える傷」を前面に出すことよりも
その人の中だけにある「見えない傷」の方がずっと大切..ということです.
傷跡そのものを自分のステータスにしてしまうのは
あれこれ説明しなくても「自分て〜なんです」と傷が語ってくれるので
実際とても楽な方法に感じるけど、実はすごくもったいないことで
そんな物語はテレビのチャンネルをひねればいくらでも出て来るし
TSUTAYAに行けば解り易くパッケージ化された物語を100円でいつでも観られます.
でもその人だけの気持ち、感じた想いはその人でなければ解らない
唯一無二のもので、決して軽薄なものであってはならないと思います.
眼に見える傷よりもっと向こうにある、本当の自分の傷に
眼を反らさずにいれること…傷口に傷をもってフタをしないで
本当に痛い部分と見つめ合ってそしてカタチにすることは
自分で自分を傷つけるよりずっと勇気が要ることです.
たぶんそのことの方がよっぽど「自殺行為」に見えるでしょう.
殊更善人ぶって自殺はいけないとか自分を大切にとか
言うつもりはないけれど、思えば自分は相当手酷い思いをしてきた気がする…
そんなとき世界の外を見るようにすると、もっと致命的な深手を負って
なお想い続けようとする人はたくさん存在していて
そしてずっと深い物語を抱えていて、その強さがあって
初めて産まれ得るカタチがあるのではないかと感じます.
文字通り身を切るようにして撮られ
創られた写真があることを僕は知っているから…
生きている以上ある程度は汚れ傷ついてしまうし
いつまでも潔白なままではいらないけれど
強い気持ち、想いというものは多少傷ついたりしても
壊れるものではないということです.
写真というものは、そこに在るものしか写らないか…
と言えば確かにそうかもしれません..だけど眼に見えるものだけしか
「届かない」「響かない」かと問われればそうは思わないと答えます.
僕は巨匠とか偉大な写真家とはほど遠いところにいるけれど
そんな末端の、ちっぽけな一写真家でさえ「想い」というものを
表現できる場所にいられる…だから「見える傷」を片道切符に
携えて綱渡りをするくらいなら、「見えない傷」に向かって
身を挺することの方が…同じ勇気を出すのなら…と僕は思います.
写真家としていつかは、傷の向こうにあるものに届きたいと思います
そうして写真は「見えない」ものにも届くのだと言えたなら…