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誰にでも恩師と呼べる人物はいることと思いますが
僕にもまた、心の底から恩師と呼べる先生方がいます。
小学5、6年を担任していただいた池上先生。
池上先生はあの頃まだ大学を出たての新米先生で
クラスを受け持つというのは僕らが最初だったと思います。
今ではあまり考えられないような…例えば当時はまだ映画館は
大人の世界でしたが、『パンツの穴』のような作品…
(今調べるてみると鈴木則文監督作品なんです)を観に
憧れの繁華街久留米へ男子のみで連れてってもらったり、
女子がずるいと言い出して、今度はスケートへクラスみんなで
今は廃線となったJR大川駅から行ったりしてもらっていました。
そんな6年2組での思い出はすごく深いものがありますが
熱血先生を絵に描いたような方で、
いつでも全力投球、完全燃焼がクラスのテーマ…
卒業の最後までよく一緒に泣き、笑った先生でした。
池上先生がご結婚されるとき、僕らは生徒として
出演させてもらったことは今でも覚えているし
何より僕の初個展へお子様を連れて来ていただけたことが
先生の生徒として、少しだけですがご恩返しできた気持ちになりました。
その池上先生がホームルームで僕らに自ら読んで
聞かせてもらった作品が、この灰谷健次郎氏の著作「兎の眼」でした。
そしてたしか小説の終わり頃でしょうか…
気がつけば先生は号泣しながら読まれていました。
そのとき当時6年生、作品のテーマや深い意味を
理解できたわけではありません。
それを承知で先生は僕らに読んで聞かせてくれたのです。
あえて溢れる涙を隠そうともせずに。
僕がその涙の意味と、「兎の眼」で触れられ、描かれている部分に
気がついたのは大人になって、僕もまた一カメラマンとしてですが
子供たちと関わるようになってからです。
目立つ子、目立たない子…みんな懸命に生きている。
そこに描かれていたのは子供たち、生徒と関わることでまた
教師として、人間として成長する新人先生の姿そのものであり
僕らは先生からたくさんのことを教わったけれども
先生自身もまた僕らと同じように生きて、悩み、考え
そして成長しているのだということの、涙に託された
僕たち教え子への伝言だったのではなかったのかと感じています。
そしてもうひとつは、他のクラスメイトたちが今どう感じているは
わかりませんが、僕が表現という世界に入って
池上先生の涙から気付かせてもらえたこと…
相手のことを本当の意味で理解し認め合うこと
人間に最も必要なこの心を持つために
人は苦しみながらも生きていくし
「苦しそう」に誰かの命を食べることの意味の持つ大切さ…
それを感じて初めて本当に暖かい心を持つようになれるのだということです。
今誰かを撮り、痛みながら作品を創り、
伝えていくという生き方を選んだ僕がいる…
そうして初めて僕は、あのときの池上先生の涙を
受け止めることができるのだと、思うのです。
ここまで書いてきて、以前にも掲載した僕の初個展の作品を掲げたのは
1998年当時20代の自分にもおそらく理解していなかっただろうことが
そこから15年後になって、完全新作での個展へ向けた活動をすることで
ようやくうっすらと見えはじめて来たような気がするからです。
なので、今までは予めデータのものを掲載していましたが
このコラム用に個展を記録したフィルムの、
退色が進んでいるのも含めてスキャンして
ネガからリビルドしました。
この「自我の灰色」は福岡市の中心部、
天神のど真ん中にあるギャラリーで開催されました。
これは以前にも書いた部分なので割愛。。。
紙粘土の女性器をボンドで直接プリントに貼り付ける
(本人はペイントと流れ方が絶妙だと今も思っています)
ようなやり方には、当時の仲間たちや先輩方からよく
「中途半端で危険.乱暴なやり方」だと本気とも冗談ともつかない
なんとも言えない感じで言われていました…
そんな半ば呆れたように「乱暴」だと言われたことに
まだ青臭かった当時の僕はむしろどうだ..と言わんばかりの
気持ちでもあったし、そしてもっと人の想いの深いところへと
意識は向いていきました。「中途半端で危険」という忠告が正しかったこと…
そしてそこに何が待つのかを知りもせずに…
小、中学校の授業で図工や美術がありますが
僕の成績はいつも2とか3で、誰あろう池上先生からも
「雑なところがあるね」と言われていました。
そのことは、今もずっと自覚しているところでもあって
逆にこの「自我の灰色」という一本の作品は
これが初個展という気負いも込みで、僕のそんな
「雑で、乱暴」な部分が出た、そういう意味では無垢..または無謀な
すごくストレートな作品ではないかと思っています。
そんな苦手な美術の授業、僕は唯一「5」をもらったのは
中学3年のとき…誰より自分が驚きましたが
その時の美術の先生..もう亡くなられたとお聞きしますが
5を付けてもらった松崎先生が僕のもう一人の
まだ誰にも話したことのない恩師でもあるのです。
松崎先生を特別印象深く、意識して恩師..だとは感じてはいませんでした
みんなと同じように僕もまた老いた無愛想な先生…
くらいにしか思ってなかった松崎先生…そんな先生が「5」を付けるに至った、
授業で描いたある一枚の「絵」.それは。。。
その絵…それこそが読書感想画「兎の眼」なのです。
疎い僕の言葉では冒頭の「兎の眼」からここに繋がるまで1800字も
費やしてしまいましたが、読書感想画の授業のとき真っ先に
この「兎の眼」を描きたいというのはあったと思います。
ですが、絵心に自信のない僕のその絵は、主人公である
ゴミ処理場の子供鉄三の、堅く心を閉ざし誰とも喋らず
塵に群がる蠅にしか心を開かないその鉄三の「手」を周囲が笑っている場面を
クレヨンと黄土色の絵の具を使って描いたものでした。
6年2組からずっと一緒の、すごく絵の上手いクラスメイトがいて
僕はいつもそれを羨ましく思っていたし、並べて批評されるときの
みんなに観られることへのプレッシャー…
当時15歳という多分に微妙な歳ということもあって、それは切実なものでした。
だからその絵はどこか自意識過剰な自分と重ねているところもあった気がします。
けれどもその松崎先生は、何故だかわからないけれど
すごく評価してくださって…その絵の上手い友達と
同じ場所で風景画を描いたときにも、焦りで完成出来なかった僕の絵を
良いと言ってくださる…「これをこのまま大事にしなさい」と…
これは今もずっと不思議に思ってる部分で、当時からもうお爺ちゃんという
ご年齢だったと思いますがその松崎先生が、僕の「兎の眼」を
県展にまでご推薦していただけていて、柳川市内のデパートの展示場に
展示までされていたということは、卒業間際なって初めて聞かされたのでした。
ろくにお礼を言うこともできないまま卒業となってしまって
写真を始め、個展などするようになりそこでようやく松崎先生のことを
思い出すことになった時には。。。気付くタイミングとはそういうものかもしれません。
絵心とか、池上、松崎先生恩師二人を比べて
「視る眼」が…とかそういうことを思ったりはしません
だけど、池上先生が読み伝えてくれた「兎の眼」がなければ
松崎先生にご評価いただいた感想画を描くこともなかったと思うし
最終的に今ここで作品を創っている自分や、コラムを書いている僕も
いなかっただろうと思います。
「兎の眼」から始まり、結ばれた先生お二方の
「教師」として伝えたかったもの…それは今の僕の中にしっかり届いている。
僕はそう多作に個展するタイプではなくて、今年の個展までには
約10年の時間を要しています。でもそれは、池上先生、松崎先生の
教え子に伝えたかったことに、僕なりの答えが出るまでにたくさんの時間…
若い熱血先生がベテランとなり、その教え子は中年にかかり
そして老教師はお亡くなりになるくらいたくさんの時間がかかる(宿題)で、
それほど切なくて情け容赦ない時間の流れが必要だったのと同じように
僕もまた、いろんなことに気付き、悩み、足掻いてようやく一本の
想いを伝えたい「個展」としてカタチにするために必要な時間だとも思えるのです。
かつて「乱暴」「無謀」だと言われていた僕の写真
およそ10年越しの個展…作品の持つ「雑」さは変わらないかもしれません。
だけど、その時、その時の10代や20代を生きる若い世代からの率直な感想を
毎回ノートに綴ってもらえること…それは作家としてすごく幸せだと思います。
そして2013年3月、個展まであと半年という中で二人の恩師を想うとき
先生方が教えたかったであろうことが、僕の中にもいつしか宿って
来場いただけるみなさんや、被写体さんたちに残していきたい想いを
真っ直ぐに伝えられる今があること、またそこまでたどり着かせてもらえた
全て方々へ…感謝とお詫びを含めて全力を尽くしたいと思います。
そして僕はこの展示で、先生が伝えたかったものへのお答えを
恩師のうちお一人に..まるで生徒が宿題を提出するように伝えられるでしょう。
提出された宿題は、決して理想的ものではないし、美しいものばかりではなくて
先生がご期待された模範回答ではなかったかもしれないけれど、
僕の出した答えを先生に見ていただけるのを誇りに思います。
時間の流れは冷たく、残酷で重いです…
けれどその流れにも光が差すときがあるのだと思います。
時間はかかる、けどかかった分だけのものを与えてくれるのだと信じています。
■今回は4000字にも及ぶ長文、拙文となり、申し訳ありません。
また遅くなりましたが2012年度JunkStage Award副賞…
という思わぬこと…分不相応とも思いましたが光栄に思います。
何より今回のような、今となっては言葉でお届けすることも難しいような想いを
コラムというカタチでお届けできる場をいただけるJunkStageを、
大切にしながら、書いていきたいと思っています。
「雑」で「乱暴なやり方」ではありますが、どうぞよろしくお願いします。
2013年春 古賀英樹