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2013/02/15

受験シーズンですね。この言葉を聞く毎に、体に微妙なテンションが走ります。

それだけ嫌いだったのでしょう。というより、「受験が楽しかった!」なんて人いるのでしょうか。いるとしたら、少数派ですよね。

じぶんが社会に出た頃も、「日本の受験システムは良い人材を生まない」的な議論があったので、そろそろ社会も変わるかと期待していたのですが、じぶんたちが親になった今でも結局、システムはあまり変わっていない。むしろ「お受験」に象徴されるように、子どもたちへのプレッシャーは少子化により昔より大きくなってしまった。

私自身も、「お受験」的なスパルタな母を持ち、たいへんなプレッシャーのもと育ってきました。そんな私が有名大学に進学するも、海外逃亡、国際結婚、しかもアーティストなんてアウトローな生き方になってしまった、その経緯をお話しましょう。

こんな私も、もともとは普通の子でした。まず小学校は、近所の公立に行きました。絵や習字、ピアノなどの「お稽古ごと」が大好きだったので、音楽や美術はもちろん得意。勉強も特に頑張らなくても”オールA”だったのですが、体育だけが苦手でした。

そんなのも小4まで。近所のスイミングの先生にスカウトされたのがきっかけで、競泳のチームに入りました。するとみるみる体力がつき、基礎体力テストで千葉市から表彰されるわ、学校代表で陸上大会や水泳大会に出るわ。小4から中2まではそんな感じで、日々5,000m〜10,000m泳ぐ、体育会系な毎日でした。

そんな中でも、中学受験をし、国立大の附属に合格しました。ここの受験は「抽選」が基本。抽選に通った後の試験では、学科だけでなく美術・音楽・体育・家庭科でも同等の点数を稼げたので、むしろそっちの方が得意な私には楽な試験。塾にも行かずに通りました。

しかし国立大附属というだけあって、実際は進学校。ほとんどの子が塾に通う中、私はその時間を水泳に割いていたので、自ずと「偏差値」はだんだん下がってくるわけです。

すると受験勉強が本格化する中2の秋、先生と親の両方から、「もういい加減にしろ」とのプレッシャー。オリンピックを目指せるような選手であったのならこっちにも説得力があったのですが・・・。悔しかったけど負けを認め、水泳を辞めました。そしてとうとう冬から塾に通い始めました。

当時千葉県でいちばん偏差値の高かった、「県立千葉」という高校が第1志望。母のプレッシャーは強大でした。あまりに強く、負けました! (^^;) 余裕の偏差値を持っていたくせに、試験当日に緊張してしまった。結果、第2希望で近所の「渋谷幕張」に進むことになりました。

この件で母にはずいぶん辛く当たられました。しかし今では「渋谷幕張」は「県立千葉」など足下にも及ばない、全国屈指の有名校になったと聞いてます。当時私が一身に受けた母の嘆きと怒りは、いったい何だったのでしょうね・・・「母さんは恥ずかしいよ」みたいなこと言ってたくせに、後になってから「うちの娘は渋谷幕張でねえ」と自慢気に話すので、勝手なものです (^^)。

当時の渋谷幕張は国際交流を売りにしていたので、一学年で20人くらい海外留学してました(今は進学優先で、留学生はいないそうです)。高校受験の失敗を日々責められ、辛く暗い毎日を送っていた当時の私。もともとあった興味も後押しし、留学は自然な流れでした。

奨学金を得て高2の夏から1年間アメリカに留学。日本に戻ってきた時、その分留年をしなくても良いように学校側が計らってくれたので、高3に編入しました。さあ大変! みんな受験勉強真っ最中。

しかも、留守にしていた1年分の内容は、自分で追いつかないといけない。なのに、アメリカナイズされた私は受験のための勉強なんてやる気がしない。赤点ばかりでした。髪はパーマかかってるし、茶パツだし(地毛だけど)、ピアスしてるし。まさに不良高校生・・・

アメリカに進学したい気持ちも無いではなかったので、TOEFL(英語)の勉強だけは本気でやりました。美大への推薦の話も来ていました。そんな中、留学担当の先生が、「こんなのあるよ」と話を持って来てくれたのが、慶応大学SFCの自己推薦制度、いわゆるアメリカ式の「AO入試」でした。

まず一次審査の「小論文・書類審査」が通れば、二次審査は「面接」。人物総合評価の試験です。将棋の名人だとか、花火職人だとか、一芸で受ける人が多い中、私にはそんな特技はなかった。けど、アメリカで絵を売って小遣い稼ぎをしていた話をマンガ風に描いたりして、「ありったけの自分」を表現しました。けっこうな倍率でしたが、その度胸を買ってもらい、合格。11月には入試が終わり、みんなが受験してるころにはせっせと教習所に通ってました (^^)

いちばんの報酬は、これで母を黙らせることができたこと。母の世間的な体裁はとりあえず繕ってあげたので(=自慢のネタを作ってあげたので)、あとの人生はすべて、自分の自由にできたのです。

そのため、今のような私ができあがってしまったというわけです・・・。おわかりですよね?

でも、就職活動もいちおうしたんですよ! 母がパートとして長年働いていた有名企業のキャリアとして内定をもらったんです。でも卒業間際に「やっぱりやーめた!大学院行く!」と、ここではなんと、母にしっぺ返してます・・・(^^;)。

このように、自分と戦うふりして、じつは「母のプレッシャー」という見えない敵を相手に戦っていたのだということに、今は気づく事ができます。しかし、若い頃は、視野が大きく持てません。「ここで失敗したら、人生すべて終わりだ」という強迫観念を母親から植えられると、それを信じてしまっていました。

アメリカに行ってようやく、「受験だけが人生ではない、人生はもっと楽しい」「受験はゲームのひとつに過ぎない」「受験は日本だけに存在するちっぽけな価値観で、世界には通用しない」という大きな視野を持つことができた。もし行く大学がなかったらアメリカに行けばいいとも思っていた。実際、慶応大学でさえ、オランダでは通用しない、世界的には二流三流の大学です。

しかし、この視野を持たずにやる受験は危険きわまりない。失敗したときに自分の人生を全否定してしまいがちなんですよね。もったいないです。

私の場合は水泳でしたが、習い事や部活、なにか好きなことを犠牲にしてしまいがちですが、それが子ども達の精神的な支えになってくれるはずなのです。どっちかひとつではなく、両立できるはずなのですが・・・。

子ども達にとって、この受験というシステムが最善なんだよ!と説得するだけの経験を私は持っていません。私にも子どもがいますが、日本の教育は受けさせたくない。自分が嫌だったことを押し付けたくないというエゴもありますが、世界に通用する人材に育って欲というのが本音。

受験生達には、ぜひこれもモノポリー的な人生ゲームの一場面に過ぎないということを知って欲しい。そして、そのようにナビゲートできるのは、他でもないご両親しかいません。

ちなみに、オランダの大学受験は、「本人の適性と動機のマッチング」が基本、その上で、志願者多数だった場合は、「抽選」です。ほんとに人生ゲームですね!

受験ってどちらかというと、親の方に課せられた精神修養ゲームなのかもしれませんね。

写真は全て、このまえたまたま訪れたオランダ・ライデン旧市街地にて撮ったものです。
2013/02/15 09:13 | maki | No Comments