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昔、ああもう6年以上も前にもなるのか
今自分の以前書いたブログ記事を
検索してみたらずっと忘れたことのない
いつも心のおまもりのような存在だった
そういう自分の書いた言葉の綴りが
ネット上にあるということだけで支えられた
記事が6年も前のもので、
ああそうかそれからもう6年も経つのかと
どうしようもない気持ちになった。
http://moonlightz.exblog.jp/4378965
らいおんさんとドラえもんの話をしようと思う。
ソーシャルワーカーとして駆け出しであった頃の話だ。
今からもう17年も前になるかと思う。
ある子どもに深くかかわるなかで支援チームの一員であり
分野は違うが精神的な意味では僕の師匠的な存在であった
心理士は折にふれ僕にはげますようにいましめるように
みちびくように言った。
「お前はドラえもんにはなるな」と。
「お前は」とも言った。「ドラえもんにはなるな」とも言った。
人が人にかかわるということを考える時いつもこのことを考える。
私たちは便利で万能の四次元ポケットも不思議なひみつ道具ももっていない。
動力だって心も身体も有限である。
個人としてではなくチームとしてまた組織としてかかわることで
一人分の人が発揮できる力以上のものを安定してかかわる相手の人を傷つけたり
危険にさらすリスクの少ないようにプロとしての仕事をしようということだと思う。
四次元ポケットはない。補給なしで動ける無限のエネルギーもない。
あるのは生身のこの自分にすぎないのだ。
できることとできないことを、やるべき範囲と踏み込むべきでないラインと
いろんなことを見極めなければ、ロマンティックな救世者幻想は結局はかかわる人を
なにより大切にあつかうべきことを大切にあつかえず
危険にさらしてしまうリスクと常に紙一重となる。
そしてまた「『お前は』ドラえもんになるな」と言い酒で死んだ心理士の孤独を思う。
心理士は酒で死んだ。俺は何で死ぬのだろうか、とも思う。
ところではたして、ドラえもんはのび太を
あまやかしてだめにしてしまったのだろうか。
しまわなかったのだろうか。
このことについては明確な答えが出ている。
映画『のび太の結婚前夜』においてのび太のこんな台詞がある。
「いつの間にか僕は夜中に一人でトイレに行けるようになった、
一人で電車に乗って会社に通うようになった。
でも本当に僕は変わったのかな?
ねえドラえもん、僕は明日結婚するよ…」
結婚前夜、しずかのパパはしずかに言う。
「やれるとも。のび太くんを信じなさい。
のび太くんを選んだ君の判断は正しかったと思うよ。
のび太君は、人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことができる青年だ。
それは、人間にとって最も大切なこと。
きっと君を幸せにしてくれるよ。」
そうだ。ドラえもんはのび太をだめにしなかった。
人が人にかかわるということにはこういうことが起こりえるのだ。
組織として、チームとして、
あるいはプロとしてかかわるということは、
しかし、個人としての人と人との出会いというものを
おとしめたり薄めたり否定し価値のないものと言っているわけではまったくない。
そのうえで我々は相談者の最大の利益を考えて動こうと
ロマンティックな気分にひたってゆめゆめ信じて頼ってくれている相手の人の
成長を阻んだり、進み羽ばたいていくべき道をとざしてしまうことのないよう
そのようにデリケートな他人様の人生にある時期限定的に限られた可能な範囲で
かかわる職業のものとして謙虚であらねばならないよと、
「ドラえもんにはなるな」という心理士の言葉を思い出しては時々何度もかみしめている。
5年前これはまた別の話として
僕は普段の仕事上の延長としてのスーパーバイズやセルフメンテナンスというのとは
別に特別な必要と解決するべき課題を感じて個人でカウンセリングを受けていた。
今度は女性のカウンセラーさんだった。
僕のはじめてのカウンセラーは僕にこう言った。
「ひとりの人間ができることには限界があるんですよ」と。僕はその時たくさん泣いた。
そして、先の心理士と同じことをそれぞれの言い方で
僕に伝えようとしてくれているのだと思った。
仕事においてプライベートにおいて常に相応の評価と承認を受けてきつつも
それでもどこかに危うさがつきまとっていたのだろうと思う。
綱渡りのようにいつもしかし万一踏み外しても常にぎりぎりセーフのほうに転がれるよう
選択をあやまらずにここまでやって、きたつもりではいる。
しかしそれでも紙一重なのだと、
ほんとにそれでだいじょうぶなのかと
一度もあやまってはいけない選択を続けられるか、
そのような緊張に耐え続けられるか、
一人の人間にできることには限界があるのだと
十数年を経て僕は今また突きつけられているのだと思う。
そして二人のカウンセラーの言葉を思い出しては
いつもどこかでちゃんと支えられてきた
そういう人たちが僕に常にいてくれたことをありがたく誇りに思う。
僕の好きなハンガリーの絵本『ラチとらいおん』において、
弱虫だったラチはある必要な時期らいおんに寄り添うようにそばにいてもらい
応援されてくらやみだってこわくなくなる。
乗り越える勇気を得てそしてふたりは離れる。
らいおんさんが去った後のラチは顔を上げて力のある目で先を見ている。
人は人にこのようにかかわりうるのだと、
ある一定の時期に必要なサポートを行なうことは決して人をだめにはしないと、
のび太にとってのドラえもんがそうであったように
ラチにとってのらいおんがそうであったように
人はそのように一人の人として出会いかかわりうるのだと、
人は成長しうるし、
勇気をもったらいおんとして
誰かにいつか支えてもらったように
人はまた誰かを支えることができる。
人が人にかかわり時に寄り添い支えることはその人をだめにしない。
どちらもが笑顔でいられる可能性のあることなのだと
らいおんさんに支えられた人は
いつか自分も人を支える、勇気のあるらいおんさんになれる
そのことが僕のかわらない希望であり信じていいと胸を支えてくれる。
生涯かわらぬおまもりのひとつとしてここにふたたび刻む。
・ 酒で死んだ心理士がよく言っていたお前はドラえもんにはなるな (瀬波麻人)