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思い出す彼の手はいつも冷たい匂いがする。
メントールより強い、薄荷よりは薄い爽やかな香りは彼本人より強く記憶に残った。呼び出しを気にしながら映画を見ているときも、食事をしているときも、ホテルにいるときでさえも、彼からはなぜかその匂いがした。しつこくまとわりついて離れない女みたいに、彼はその匂いを肌にこびりつかせていた。
「一度これで振られたことあるんだ。なんか冷たい感じがするって」
煙草に火をつけて気だるげに一人ごちる姿も見たことがある。むき出しの背中が白くて、風邪をひいてしまうのではないかと思い、私は黙って布団をかけてやった。学生時代はサッカー少年だったという彼の背中は決して貧相ではなかったのに、どこか無菌室で育ってきたようなバランスの悪さが目立った。
彼は仕事が好きだった。
仕事中は自分が万能の神になったような気がするのだと言っていた。気分が高揚して、自分にできないことなど無いという気がするらしい。仕事のことを話す彼はセックスの最中より魅力的だった。そういう彼のことが結構好きだった。男は仕事が出来て一人前、という価値観を私たちは共有していた。デートに遅刻しても、途中で帰っても、だから一度も怒ったことはなかった。
悪い、と大して悪くも思っていそうにない顔で帰る彼を、私はいつも笑顔で見送った。
彼からの申し出を渋っているのは、だから仕事のせいではない。
当直が続いているからという断りの電話の後で郵送されてきた婚姻届はまだ白紙のまま手元にある。開封したときも、彼の手を思わせる冷たい匂いがした。結婚という言葉の響きと現実に滅菌されたナイフのような鋭利さを持った手紙に、私は少し狼狽した。
もともと、そのつもりで付き合っていたはずだった。彼ならば私を飢え死にさせるようなことはないだろうし、長い付き合いでお互いの性格も知っている。何より親が喜ぶだろうと思う。けれど、温かな家庭と言う一般的なイメージの前に、彼の匂いはそぐわなかった。強く切り立った崖のような峻烈さは、何もかもを包み込むような雑駁さの対極にある。家庭と言うものはそういうものだという気がする。例えば子供が出来たら。あの病的なほど白い手は幼子を抱きあげることが出来るのだろうか?
彼は仕事が好きだ。だからそれに連なるあの匂いも一生まとわりつかせて生きるのだろう。
けれどそういう彼だから惹かれたのも事実で、私は混乱してしまう。
どうしたらいいのか、どうしたのか。
次に彼に会ってその冷たい手で触れられたら、きちんと答えが出せるだろうか。
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花言葉:清潔
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。