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2ベルが鳴った。
扉越しでも聞きとれるほどざわめいている客席が一瞬にして静かになる。開演。期待と興奮と、値踏みするような視線が劇場の中に充満しているのを肌で感じる。私はそっと目を閉じる。誰もいないロビーで神様に祈る。
神様神様、お願いですから今日の公演も無事に終わりますように。お客さんが帰りにここを通る時、どうか笑顔でありますように。
私はこの劇団の正式な団員ではない。ありふれた話かもしれないが、付き合っていた男が役者で、ここの団員だったのだ。それがきっかけで公演を見に行くようになり、稽古場に差し入れをするようになり、気が付いたら全員とほぼ顔見知りになっていていつのまにか受付に座るようになった。妙な話だが、だから私は最近の彼の舞台を見ていない。通し稽古の時に見るくらいで、ゲネの時は電話番をしているから衣裳を着て照明が当たった姿は扉の向こうに閉ざされている。
誰もいないロビーは静かだ。
ここに座ることになるまで、私はこんなに静かな場所を知らなかった。会社でも、外でも、道端でさえ、ここよりは人の気配がして明るかった。ひっそりと静まり返った開演後のロビーは、ビラでさえ寡黙だった。光の落ちたフロアには埃すら舞うこともない。扉を隔てた向こうでは、熱狂ともいえる熱が渦巻いているだろうに。
今回の芝居はシェイクスピアのマクベスを幕末の日本を舞台に置き換えたパロディで、彼の役は原作のバンクォーにあたる。出番も多く、やりどころのある大役だと彼が嬉しそうに言っていた。このところ客演ばかりで本公演に出るのは1年ぶりだったから、いっそはしゃいで見えたほどだ。遅くまで稽古場に残り、くたくたになって私の部屋に転がり込んでくるのは毎晩のことだった。
舞台上の彼を想像する。剣道部時代の袴をはいて、木刀を持ってセリフを言う彼の姿を。明るく、はつらつと、そして裏切られた悲しみで死んでいく彼の姿を。舞台の上には人生があるのだと彼は言っていた。そこで生きて死んでいくのが嬉しいのだと居酒屋中に響くような声で熱弁を奮っていた。劇団の皆は目を輝かせて頷き、同意を示した。私はその横で黙ってビールを舐めていた。
光の中の彼はこんなにも遠い。
また、ベルが鳴った。
終演の合図。私は立ち上がり、ロビーの照明を付けた。ざわざわと人の気配が戻ってくる。もうじき劇場のドアが開く。アンケートは何枚入るだろうか。お客さんは? 彼は笑顔で出てくるだろうか。舞台でも、そして現実でも。よく死んで、そしてよく生きることができただろうか?
私は深呼吸をして背を伸ばし、扉をあける。
まばゆいほどの光が、熱が、冷たいロビーをあかるく照らした。
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花言葉:気品、高潔
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。