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私は体罰はどんな理由があっても反対です。暴力ですから。それはいろいろな理由や自己正当化はあるだろうが、結局、戦争だってその延長線上にあるように思います。
体罰をした先生の理由や目的はこういうことだと思います。
・子どものために子どもを教育する目的
・強いチームをつくるという目的
私もこの目的に部活があっても異論はありません。しかし、この2つの目的を達成するためには、体罰が必要なのかといえば大いに疑問だと言わざるを得ません。
殴らなければ子どもは教育できないのか?人生で立派に大人になっている人はみな体罰を受けた人なのか?
子どもによりよい大人、人間になってもらうために体罰があるのなら、体罰という授業があるはずです。
しかし、そのような授業や教えはどこにもありません。私の周りにいる素晴らしい人たちは殴られたり蹴られたりしてそうなったのではありません。中にはそうされてきた人もいますが、それが彼らの素晴らしさをつくったのだとは、どうしても私は理解できないし、そんな因果関係など絶対にないと思います。教育は必要ですが、その方法が体罰しかないなんて、そのようなはずはないです。
スポーツで強いチームや強い選手をつくるには体罰が必要か?体罰がないと強くならないのか?マイケルジョーダンは殴られて強くなったのか?メッシは蹴られて世界最高のアスリートになったのか?イチローや松井は体罰の結果なのか?オリンピックのメダリストは体罰の象徴なのか?競技成績の高い人ほど、体罰の率が高いのか?絶対にそんなことはないです。アスリートやチームの強化のために体罰という方法が必要などという証拠など一切ないはずです。体罰などなくても強いチームをつくっている指導者は世界にごまんといます。むしろほとんどの指導者はそうです。体罰という方法でしかチームを強くできない指導者は悲しいです。
体罰などなくても教育し育てる方法、体罰などなくても強く勝てる選手やチームをつくる方法を真剣に模索しないから、体罰で教育し強化していると自己満足に陥るのだと思います。
人は誰でもミスをします。ミスをしないように指導していくのが指導者です。ミスする選手を試合に送り出した、その指導者はなぜ殴られないのか?できないことをできるようにするのが指導者の仕事のはずです。できないといって体罰を与えるのであれば、指導者ではありません。ただの暴力者です。
恐怖や脅しでは人は育たないし、強くなどなりません。それは甘やかしていいといっているのとは違います。厳しさと体罰を混同しないでください。どう厳しくしていくのかを、大人や指導者やコーチや先生、そして社会が考えていくことが重要です。それによって教育される側もする側も成長していくのではないでしょうか?
部活の体罰は特に社会問題だと思います。今、日本は部活でスポーツをやらなければ、子どもたちがスポーツを一生懸命に取り組む場が他にほとんどありません。そのため、子どもたちは指導者の行動がおかしいとか、間違いだとか、理不尽だと感じても、部活を辞めてしまうと自分の大好きなスポーツができなくなってしまう現状があります。そうすると、常に子どもたちはスポーツを人質にとられているため反抗できず、指導者はその構造に甘んじているのです。
そして指導者は自分が絶対だと思い込んで体罰の正当性を自らつくりだし、甘んじている指導者も少なくありません。結局はどんなに体罰を与えても子どもも親もその部分で人質にされてしまっている以上、その指導が美化されてしまっているのではないかと思います。
あくまでも私見を思い切って述べてみました。ご意見をいただければ幸いです。スポーツの素晴らしさを信じて疑わないスポーツドクターの私としては、あまりに憂える事件だと言わざるを得ないというのが本音です。