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2013/01/12
こんばんは、酒井孝祥です。
 
こんな舞台を観たことがあります。
内容は典型的な時代劇で、吉原の遊女に用心棒の先生、茶店の親父など、お約束のキャラクター達が沢山出てくる様な作品です。
 
開演してまず驚いたのは、衣装やかつら、メイクなどが、その規模の小さな劇場の公演としては考えられないほど立派だったことです。
 
小劇場で時代劇が上演されるときは、かつらを用意する費用がないため、髪型は現代のままで行なわれることが多く、用意したとしてもチープな感じのものが多いです。
そして、着物も持ち寄りで用意されるため、それっぽくは見えるものの、実はその時代背景とは合っていないものが着られていたりします。
 
そして、一番最初のコラム
で述べた様なおかしな着方をされていることが多いです。
 
その舞台では、小劇場の公演にも関わらず、大劇場での商業演劇に貸し出しを行なっているような会社から、衣装やかつらがレンタルされていました。
プロの着付けの人が入っていたのか、着方も立派なもので、劇中、ほとんど着崩れた光景を見ませんでした。
 
そして、プロの日本舞踊家が所作指導に入り、出演者の中にも日舞経験者が多く、細々としたところまで所作的な動きがつけられた跡が見られました。
 
しかし、何とも残念なことに、それほどまでに和物の演出にこだわり、衣装代などに相当な費用がかけられていたであろうにも関わらず、役者の口から発せられる台詞が、ほぼ全出演者において、完全に現代語の語感をもって、時代物の言葉が喋られていたような感じでした。
 
いっそのこと、台詞を現代語におきかえて、姿格好は江戸時代のものだけれど、台詞のやりとりは現代劇という演出方法だったりした方がよほど良かったと思いました。
台詞の言葉の字面は時代劇調なのに、現代の日常語を喋るようなニュアンスでそれが喋られたため、聞いていて違和感があり、気持ち悪かったです。
 
特にそれが顕著だったのが、吉原の遊女の台詞でした。
 
遊廓には廓詞(くるわことば)というものがあり、その特徴から“ありんす言葉”などと呼ばれることがあるようです。
テレビで時代劇を見ていて、遊女が台詞が喋るときに、「〇〇でありんす」と語尾に“ありんす”をつけることがあると思いますが、そういった喋り方は、遊女の出身地を誤魔化すために発生したようです。
 
地方から売られてきた遊女が、田舎言葉をまる出しで喋ってしまったら、お金を払って一夜の幻想を求めてきた旦那衆は興ざめしてしまいます。
それを防ぐべく、遊廓の中だけで用いられる、独特のニュアンスの言葉が生まれ、それを喋ることで、地方の農村で育った娘でも優雅な雰囲気をかもし出すことが出来たようです。
 
抜けるような高い声で独特の言葉を喋られ、旦那衆は夢の世界へと誘われたことでしょう。
歌舞伎で遊廓を舞台にした様な作品などで、その世界観が表されているかと思います。
 
ところがどっこい、先日観賞したその舞台では、完全に現代の東京弁で「〇〇でありんす」と喋られていました。
歌舞伎などで見られる様な、遊廓の独特の雰囲気が全くありませんでした。
 
少年漫画のキャラクターが「〇〇でござる」とか「〇〇ざます」などと言葉尻をパターン化する様な感じで「〇〇でありんす」と言われてしまい、聞いているだけで興ざめしてしまいます。
語尾に“ありんす”をつければ遊女っぽくなると思って、つけていたのかもしれませんが、取ってつけたように“ありんす”と言われても、逆に耳障りになってしまいます。
 
自分のことを“わちき”と言っても、語尾に毎回“ありんす”とか“ごんし”とかつけても、それだけでは遊廓の世界観は出来ません。
やはり、そういった言葉を使うのであれば、それを巧みに扱う歌舞伎の女形などの喋り方を参考にすべきと思いました。
 
その独特の言い回しと、喋る息遣いによって、夢幻の世界が出来上がることでしょう。
 
次回は、「役者のアルバイト事情」(俳優道)をテーマにしたコラムをお届けします。
2013/01/12 02:18 | sakai | No Comments