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2012/12/30

こんばんは、酒井孝祥です。

「客席に帰れ!」
芝居の稽古やレッスンのときに、そんな風にダメ出し(?)を受けたことがあります。

本来客席にいるはずの演劇ファンが演劇を愛好するあまり、鑑賞するだけではあきたらず、自分が舞台に立ちたいと思うようになった。
そのため、ファンの立場として嬉しい様な決め台詞などに手応えを感じ、格好良く役を振る舞うことに酔いしれる。
ミーハーな気持ちの延長で舞台に立って、それを楽しんでいる、役ではないその人自身の姿が見える。

「客席に帰れ!」と言うのは、そんな状態になっていることの指摘で、そんなことをする様な奴は、舞台の上に立とうとするのではなく、本来いるべきはずの客席に戻れという意味合いです。

こんな人もいます。
アクションが苦手なのにアクションシーンのある舞台に出たいと思っており、アクションのレッスンに参加していますが、お金やら仕事などの問題で、参加しているアクションのレッスンにはほとんど来ない。
それでいて、好きな俳優が出演する商業公演には、それが地方であろうとも、時間と旅費を割いて、軽いフットワークで足を運ぶ。
良い作品を作るために自分を高めるよりも、自分が好きな舞台を観にいく方が大事だったら、何も自分が舞台に立たなくても、客席で観劇して楽しんでさえいればいいじゃないかと思います。

しかし、当然のことながら、そもそも演劇を愛好する気持ちがなく、演劇ファンの心を持たない人間が、舞台に立ちたいなどと思うわけはありません。
それでは、双方とも演劇が好きで好きで舞台に立っているにも関わらず、客席に帰るべき人と、舞台に残るべき人の違いは何なのでしょうか?

色々な考え方があると思いますが、一つの解釈として、第一に、自分のために舞台に立つのか、お客のために舞台に立つのかの意識の違いが挙げられでしょう。
言い方を変えれば、自分のパフォーマンスをお客にみとめられ、評価されることを第一に考えるか、お客さんが心を動かして満足していってくれることを第一に考えられるか…ということです。

また、自分のために作品があると思うのか、作品のために自分があると思うのかの違いもあると思います。
演出兼脚本家に「今回の芝居では、僕に感動的な見せ場を作ってくれるんですか?」と尋ねる俳優の姿を見たことがありますが、もしも僕がそう尋ねられたとしたら、その俳優に見せ場を作ることが危険に思うことでしょう。

自分を見て欲しいと思う俳優の自意識、それが舞台空間で最も見苦しいものかと思います。
そのことを題材にした「淀五郎」という落語がありますが、それはまた次回に述べます。

その自意識に打ち勝つ方法は、立っている役者自身の目的、欲求ではなく、その役が作品の中で持っている目的、欲求に集中することでしょう。
そして、それを助けてくれるのが、相手役が与えてくれる刺激です。
相手役に集中していれば、結果、自分の役に集中することにもなります。

僕が「客席に帰れ!」と言われたのは、もう何年も前の話で、ここ何年かで出会った演出家から、そういう言い方では指摘を受けたことはありませんが、同じ様なことは思われているかもしれません。
最大の敵は自意識です。
来年こそはこの自意識を瞬殺出来ることを目標にしたいと思いつつも、永遠に戦い続ければならない相手であるような気もします。

最大の目標は、客席に帰るように言われるどころか、舞台と客席が一体化したような素晴らしい舞台空間を創り上げることですね。

次回は、「俳優としてのバイブルの様な落語」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。

2012/12/30 07:31 | sakai | No Comments