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こんばんは、酒井孝祥です。
以前、国立劇場で行なわれた大きな会で浄瑠璃を語る機会がありました。
演目は「日高川」でした。
内容を簡単に説明すると、清姫という女性が、安珍という若い旅のお坊さんに惚れ込み、執拗に追いかけ、終いには蛇の化身となり、お寺の鐘の中に隠れた安珍を焼き殺してしまうというものです。
そのときに僕が語ったのは、清姫が色々な人に安珍の行方を尋ねながら旅をしている場面です。
自分の出番が終った後の時間で劇場ロビーをぶらぶらしていると、見知らぬ外国人女性グループから声をかけられ、
「先ほどの演奏は素敵でした。とても情熱的でした。」
などと感想を言われ、一緒に写真を撮ったりしました。
そしてその後、
「ところで、どういう内容だったのですか?」
と尋ねられました。
つまり、良かったと言いながらも、作品の内容自体は、全く理解していなかったのです。
この話を聞いて、
「意味も分かってないのに、軽々しく良かったと言うなんて、失礼なお客さんだな…」
と思う人もいるかもしれませんが、僕は全くそう思いません。
それでこそ、“してやったり!”と思います。
よく古典芸能や邦楽の演奏は、
「難しそう…」「意味が分からなそう…」「理解出来なさそう…」という理由で敬遠されがちです。
でも、それだったら、なぜ、英語を知らない日本人が、外国人歌手が英語で歌うコンサートに足を運ぶのでしょうか?
なぜ、英語を知らないのに洋楽のCDを好んで聴く人がいるのでしょうか?
その音楽を通じて、心に響き動かされるものが感じられるから、感動出来るのだと思います。
意味や内容を理解出来るかどうかは、パフォーマンスを楽しむ上で大きな問題ではなく、逆に、きちんと理解をしようと身構えてしまうことで、本来なら楽しめるものも楽しめなくなってしまうかもしれません。
歌舞伎や浄瑠璃などの演目で「佐倉義民伝」という作品があります。
劇中で、貧しい農家の男が、年貢を下げてもらうよう、命を捨てる覚悟で直訴にいく前の晩、女房や幼い子どもに別れを告げるシーンがあります。
このシーンを、三味線の音と太夫の声だけで表現する素浄瑠璃の形で、お客として聞いたときに、語られている古語の意味はあまり理解出来なかったのにも関わらず、三味線の音色の物悲しさと、太夫の語り口から滲み出る哀愁感に、涙が溢れてきました。
古典芸能が難しいと感じるのは、“意味が分からなければいけない”“理解しなければいけない”という先入観がそうさせていることもあるかと思います。
しかし、
「あんなに高い声が出るなんて凄いな!」
「衣装がド派手で凄いな!」
「人がいっぱい出てきて激しく動き回っていて凄いな!」
などという、本当に単純なことでだって感動出来ると思います。
難しく考えたら、逆につまらなくなってしまいます。
次回は、「司会とサービスのコラボレーション」(ブライダル)をテーマにしたコラムをお届けします。