« | Home | »

2012/12/11

King of Popと称された、マイケル・ジャクソン(以下MJ)が亡くなったのはもう3年前の2009年6月25日。
当時の日本はといえば、まだ東日本大震災も発生していない。すなわち放射性物質を大量に含む雨が降ることもなければ、脱原発なんて言葉を唱える人とは距離を置いて然るべき関係だったはず。
あまつさえ、ここ数年、すばらしいエンターテイナーたちがお茶の間を楽しませてくれた民主党政権でさえ、当時はまだ発足していなかったのだ。
麻生太郎元首相により衆議院が解散されたのは、2009年7月21日のことだった。

そして、MJである。
MJ死亡の経緯について、詳しいことを知っている訳ではない僕も、プロポフォールが医師の常時監視下で用いられる麻酔薬であるということは知っている。
プロポフォール(化学名:2,6-ジイソプロピルフェノール)には中枢神経抑制作用があり、医療現場では全身麻酔の導入、維持に用いられる。
ポップ・ロック・ソウルの王者を永遠の眠りに誘ったこの麻酔薬は、ではどれほど危険な薬品であるかといえば、本来はそうでもないのだ。
現実問題、全身麻酔の手術の際にメインで用いられるのはどの医療機関であれたいていはプロポフォールだ。
手術室に入れば、静脈にルートを取って注入されるプロポフォールを幾度となく目にする。
水に溶けないこの薬品は、脂肪製剤により乳化された状態で製品化されており、白くややとろみのあるその外見は何かに似ている。
そう、牛乳。
MJ本人も、プロポフォールのことを“ミルク”と呼び、かのマーレー医師に僕たちの常識とは異なる“ミルク”を処方させていたらしい。
寝る前にはホットミルクを飲むと寝付きがいいと言われているし、カルシウムやトリプトファンの入眠効果を報告する論文は数多かれど、
なにもこっちのミルクに頼らなくたってよかったんじゃないか、とは思うのである。
もちろん、放っておけば呼吸が止まるプロポフォールを投与しておいて、2分間もの間トイレに立った医師がいるのなら、医学生程度の視点からしても、
それは医師失格だ。

世界中で深刻な不眠に悩む患者を一堂に会したら、ネバーランドだって溢れかえってしまうだろう。
それらすべての患者にプロポフォールを投与するべきか。答えは否である。あれはそういうたぐいの薬品ではない。
睡眠中、常時医師を傍らに置いてまで、死に至る危険を孕んだ麻酔薬を毎晩投与される人生は幸福ではないと僕は思う。
ではなぜ、MJはプロポフォールにこだわったのか。一説には、前年に専属の看護師にまでプロポフォールの処方を依頼していたと聞く。
理由はプロポフォールに特有のある効果によるのだろう。
プロポフォールによる麻酔状態から覚醒すると、患者はこれまで体験したことのないような爽快な目覚めを経験するらしい。
あれをもう一度使ってくれないか、と、術後の患者から頼まれたことがあるほどだと、僕の実習の指導医は話していた。
MJがいったいどのタイミングではじめてプロポフォールを投与されたのかはわからない(たしかに手術の回数は多そうだ)。
深刻な不眠に悩んでいたという彼は、あまりに快適なその目覚めに、依存してしまったのだろうか。
王者であるということは、かくも困難なことであったようだ。

僕は商業ライターをして学費の足しにしているわけだけれど、少し前に“快適に目覚める香り”について調べる機会があった。
結局、匂いについての研究はさほど進んではおらず、医学的に確からしいことはそう多くはない。
経験的に信じられている効用はすごく多いのだけれど、だからこそアロマセラピーなるものが一定の支持を得ているのだろう。
そこで個人的に印象に残ったのは、ベルガモットの作用だった。
ベルガモットはミカン科の柑橘類で、主産地はイタリアなど地中海の沿岸部である。しかし、強い苦みから果実は生食や飲用には向かず、もっぱら精油を採取し香料として利用されてきた。
その効用は鎮静と興奮の相反するもので、すなわち神経が高揚しているときはそれをクールダウンさせ、逆に抑うつ傾向にあれば陽気な気分になるという。
なんともイタリア人らしい調子のいい心理効果であるが、これが“経験的に信じられている”というのだから仕方がない。
ちなみにこのベルガモット、紅茶のアールグレイの着香に利用されている。
あの独特の香りは、じつはベルガモットによるものなのだ。すなわち、アールグレイを飲んでも効能は同じであるはずである。
心理的な作用が健康に与える効果は看過できない。プラセボ(偽薬)的なものはじつは臨床の現場で多々処方されている。
アロマセラピーの心理的効果について、医学生の僕は、報告があるとかそういう曖昧な表現をとることしかできないけれど、
少なくとも、その心理的効果を疑ってかかるよりは、そう信じてみることのほうが、結果的に利益は多そうではあると思う。

だから僕は、起床後に、アールグレイの紅茶を飲むようになった。
マイケル・ジャクソンがミルクではなく、アールグレイの紅茶を飲んでいたら、ポップの歴史はもう少し変わっていたのかもしれない、と思いながら。

2012/12/11 06:00 | kuchiki | No Comments