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最近、“なにか”を持っているなんとか王子のおかげで、
ちまたでは“なにか”を考えることが流行っているようです。
そのため、自分で言うことではないと思いつつも、
最後に、負けた試合で感じた“なにか”について書いてみようと思います。
負けた試合中に感じた“なにか”、
負ける原因と言うことも出来る“なにか”こそが、
3話にもわたった「野球部 最後の夏」シリーズのサブタイトルに書いてきた、
“自信”だと感じました。
“自信”を持つこと、自分たちが行ってきた練習や仲間を信じることは、
緊張などのネガティブ要因から解き放ち、
ベストパフォーマンスを引き出してくれます。
その効果によって、ここまで勝ち続けることが出来たと思います。
しかし、負ける原因のひとつとなったのもまたこの“自信”ではないでしょうか。
悪い方向に働いているので、“過信”と言った方がわかりやすいかもしれません。
では“自信”が“過信”となる(自信が良い方向ではなく悪い方向へと働く)のはなぜでしょうか。
そして、いつ“自信”が“過信”となるのでしょうか。
この度、書きながら考えた答えは、
「なぜ?」に対しては、“謙虚さ”や“誠実さ”を失うからであり、
「いつ?」に対しては、それを失ったときだと感じました。
自分を信じる割合の問題で、“自信”と“過信”が変わるのではなく、
自分を信じる割合が同じであれ、“謙虚さ”や“誠実さ”を失ったときに“過信”となるのではないでしょうか。
また逆を言えば、自分を信じる割合が多くなろうと、それを失わなければ“過信”とはならないのではないでしょうか。
“謙虚さ”や“誠実さ”の喪失は、自信の割合が増えたときに起こりやすいので、
“過信”とは“自信”の量が増えることだと思われているのかもしれません。
しかし本質的な問題は量ではなく、“謙虚さ”や“誠実さ”の喪失であり、
その結果、冷静な判断を失うからではないでしょうか。
例えば、私の野球部の経験から言えば、
自分たちは強いという“自信”から、
優勝候補相手にもひるむことなく自分達のプレーを信じてベストパフォーマンスを発揮しました。
自分たちは強いと“自信”を持ちながらも、
優勝候補が相手ということもあり、“謙虚さ”や“誠実さ”を持ち兼ねていました。
そのため、常にミスをしないように、そのとき出来るベストは何かを意識してプレーしていました。
しかし、負けてしまった準決勝の試合では、
優勝候補を破った翌日であり、更に初回で先制したことで、
“謙虚さ”や“誠実さ”を失い、冷静な判断が出来なくなっていました。
監督のサインを間違えたり、送りバントを失敗したりというミス。
点数がとられても、いつでも取り返せるから大丈夫という楽観視。
完全に精細を欠いていました。
小学生のときに感じた“なにか”は、
“自信”が“過信”になり、大切なものを失った感覚だったのではないでしょうか。
言葉にしてしまうと陳腐になってしまいますね。
いや、言葉にする能力の問題でしょうか。
おそらく、こういった言葉にはしづらいものを、
一輪車やスポーツ、様々な経験から、感覚的に沢山学んできたように思います。