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3歳の男の子の心を動かすものを、わたしは心から尊敬する。
たとえば仮面ライダー。ポケモン。空き缶。緩衝材。電車。工事現場の大きな車。息子はそういうものと出会うと、その小さな手につかみ取ろうとするかのように腕を伸ばす。その様子は光に向かうひまわりに少し似ている。もっとこちらへ。もっと自分の方へ。触れられるものには触れて、そうでないものには憧れをこめた視線で、黒目の大きな瞳をくりくりと動かす。もちろん、いつもそういうものに出会えるとは限らないし、出会ったとしても手に入れられるものではない。
けれど、そういうものを息子がどれだけ希求し、欲しているか。
それに身をゆだねている息子を見るわたしの心はほんの少し、癒されるのだ。
わたしは息子と二人暮らしだ。
単身赴任中の夫は週末ごとに帰ってきて、子供の成長ぶりに目を細めている。お絵かきをする息子の傍に寝そべって相手をしてくれている間に、わたしは買い物や料理を済ませる。不思議なことに夫がいるとき、息子はぐずらない。それはなんだか不当な気もするのだけど、いつもより量が増えた洗濯物を畳むときに邪魔が入らないのはありがたい。
キャリアを捨てて家庭に入る、などという芸当が自分にできるとは思わなかったが、はじめてみれば働いているとき以上に心労が多いのが育児だった。それまでは立場に応じた呼び方をされていたのが全部「お母さん」とひとくくりにされ、出来なければ糾弾されるが出来ても評価も何も与えられずに放置される。そして息子はそんなわたしの心情など全く頓着せず、夜泣きし、食べこぼし、突然物にあたるのだ。訳が分からないながら叱っていると、もっと子供の気持ちによりそって、などとしたり顔の説教を受ける。それが分かれば苦労がないのにと思うと、母性がどうの、と精神論で諭される。
遅い結婚だったから、子供が授かったのも同年代の友達の中では一番遅かった。仲が良かった友達はもう何年も前に子を産み育て、今更教えを請うのは面倒だった。辞めた会社にいる同僚たちは子を産むことがもう難しい年齢で、そもそも話題を振りようがない。夫は子供好きだけれど、同じく初めての息子なので悩みへの回答を得るに足る相手ではなかった。
「おー、上手に描けたなあ。パパはそんなに上手に書けないなあ」
洗濯物を畳む手を止め、背後を見やると夫が息子の描いた絵を目を細めて眺めていた。
最近、らくがきというか、クレヨンでひたすら円を描く、ということに息子は夢中になっている。またそれを始めたのか、と少しため息をついた。始めると夢中になるらしく、画用紙をはみ出して壁でも床でもお構いなしになる。きつく叱ったこともあるのに、と思うと甘ったるい夫の声もうっとおしく、わたしは再び手元に視線を落として作業を再開した。
「何書いたかパパに教えてくれるかな?」
「ん、ん、ないしょ!パパにはないしょ!」
覚えたての言葉を嬉しそうに息子は繰り返す。きゃらきゃらと笑い声がはじけている。きっと、わたしにはあまり見せない天使のような表情をしているのだろう。ずるい、と不意に思った。夫はずるい。可愛い顔だけ見て、ずるい。楽しそうに笑うばかりで怒ることもなくて、ずるい。
「男同士だろ。秘密にするから教えてくれよ」
「言わない? ママに言わない?」
うん、と夫は答えた。掌で口元を隠して、息子は何かを耳打ちしたらしい。楽しげな空気がこちらにまで漂ってきて、ますますずるい、と思う。
「そうかあ、おかあさんを描いたのか」
夫がのんびり、でもどこか寂しそうに言って、息子はもう一度内緒だよと念を押す。
もう聞こえている、と思ったけれど、ずるいはどこかに消えてやっぱり息子が可愛くなった。
息子は今、まだわたしを望んでいる。
それがなんだかたまらなく嬉しくて、握っていた洗濯物を勢いよくパンと張った。
もうすぐ、ご飯の炊きあがる時間である。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。