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2012/07/23

開始時間にはまだ少し時間があったが、スタジオに入って着替えてみると既に数人の姿があった。
挨拶を交わしながら、壁に張り出された今日のメニューをざっと確認する。「彼女にあげたいチーズケーキ」と大きくプリントされた工程表を眺めていると隣の男性が苦笑した。まだ若い。30代前半と言ったところだろうか。この教室に集う連中は僕と同世代が多い。

「彼女は多分食べてくれないと思うんですよね。どうしよう」

「どうしてですか?」

「男が料理するって、あんまり好きじゃないみたいで」

ああ、と相槌を打ちながら、講師の言葉に従ってクリームチーズを混ぜ出した。ふと、妻が食べてくれるのか心配になる。すらりとした体型をキープするために甘いものは控えているらしい。その分、食事には気を使っている。もちろん、僕が、だ。

僕はこの春、初めての部署に異動になった。
管理職待遇だが、実態は体のいい左遷に他ならない。残業もなく、部下も一人しかおらず、いってみれば気楽な身分である。50歳を過ぎて解雇されることも覚悟していたから、この温情とも言える待遇はありがたいことだった。

いわゆるバリキャリである妻は、僕よりずっとよく働き、稼ぎも大きい。自然、家事は僕の分担になった。とはいえ、接待の機会も多い妻は舌が肥えており、満足させる料理を出すのは難しい。定時後に料理教室に通うようになったのは、そういう事情からだった。

それにしても、世の中には僕のような境遇の男も多いらしい。
この教室はサラリーマン向けだそうだけれど、それにしても男ばかりで女性は一人もいない。指示された通りバターを塗った型に生地を流し込み、とんとんと空気を抜く。慣れたもので、隣の男性から感嘆の声が上がる。上手ですね、と褒められてすこし笑った。

「前は男子厨房に入るべからずって言いましたけどね」

若者は頷きながら、不器用な手つきで生地をならしていく。

「母はそう言うんですよね。僕が料理してるって言うと」

「でも楽しいといえば楽しい」

「そう。この間ここでならった芋きんとん出したら、喜んでくれて。手はかかるけど」

どうにか均一にしあげた生地を冷蔵庫に入れて、彼ははにかむように笑った。

きっと彼の恋人も僕の妻のように忙しいのだろう、とふと思った。そして、だからこそきっと食べさせたい、と思うようなひとなんだろう。うちと同じに。
そう思ったら、不思議と口が軽くなった。

「食べさせたいって思うと、上手に作れる気がするんですよね」

同感ですね、と頷きあって、僕らはチーズケーキを冷蔵庫に入れた。
これから、女子禁制のお茶の時間である。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

2012/07/23 05:54 | momou | No Comments