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2012/07/17

皆さん、おはようございます。
私が皆さん、・・・まあベテランの人に今更望みはしないですが、
若いクラシック歌手の人に望む、声づくりがあります。
それは、汚い声も自在に使いこなせる人になれ、ということです。

確かに観客の皆さんというのは、
美しい声を聴きたいと、足を運んでくれている人が大半です。
ですから、そもそも汚い声の歌手なんて不必要だとは思います。
しかしながら、最初から最後まで、
美しい声だけ聞かされたら、ある例外を除いては拷問です。

どういうことかというと、
美しい声で歌われた歌というのは、
私の場合5分も聴けば飽きます。
上に「ある例外」と書いたのは、
その声が好みのタイプだった場合に限り、
どれだけ聴いても飽きないでいることができる、ということです。
ただし、飽きないというだけの話です。

男女関係に譬えるとわかりやすいかもしれません。
男目線で書かせてもらうならば、
どんなに綺麗な女性とベッドを共にしても、
よほどタイプの容姿を持っているか、
セックスの相性がよほど合わない限り、
あっという間に飽きてしまうでしょう。

しかし、セックスがよほど良くても、
それ以上の快楽があるわけではありません。
そんな状態で望み得る関係はセックスフレンド、
即ち、セフレというやつです。
誰にでも自慢できる彼女にするためには、
才色兼備、という言葉の通り、
才が備わっていなければなりません。

もちろん、どういう方向に才があるのを良しとするか、
それは個々人で違いますから、一概には言えません。
でも、どこかに感動でき、尊敬できる要素があってこそ、
その女性を彼女にしていることを誇りに思えるものです。

これは歌でも同じです。
この人のファンで良かった、と誇りに思えるファンを作りたければ、
美しい声で美しく歌っているだけでは不十分です。
私はこれに、「汚い声も駆使できること」を提唱しています。
それだけ表現幅が広がるのです。

そして、ここからはテクニックの話になりますが、
「真の」美しい声は息の柱を支えとすることで獲得できるのですが、
汚い声の方は、美しい声ではそれほど問題とならない、
鍛えられた筋肉の支えが多少必要となります。
どら声のような声だと、横隔膜の支え、
正しくは、横隔膜を支えに使えるだけの関連筋肉の支え、
というものが必要になるわけです。
この支え無しに汚い声を出すと、絶対に喉を潰します。

さて、それらのテクニックを前提にした上で、
その先は人間性の問題になってきます。
これは、精神の人間性と音楽の人間性、
まったく同じ土俵での話になりますので、
いわゆる「音楽哲学」、同一の話ですね。
しかしその人間性の基礎の部分は、
テクニックを磨く姿勢にも表れていますので、
初手からは関係ない、というわけでもありません。

他人に対して謙虚であっても仕方ありませんが、
自分の目指す音楽に対してくらいは謙虚でなければいけません。
もっとも、音楽には謙虚だが、他人に対しては謙虚でない、
という人だと、一匹狼の音楽家になってしまいますけどね。(笑)

ともあれ、幅の広い音楽家になっていただきたいものです。
レパートリーが広い必要はないけれども、
ある作品を幅広く表現できる人ではあってほしいですね。

2012/07/17 09:45 | bonchi | No Comments