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2012/04/25

地球の舳先から vol.236
東北/被災地 定点 vol.3(全7回)

陸前高田ドライビングスクール。
東京からも運転免許合宿生を多く受け入れているため、聞き覚えがある方も多いだろう。
この教習所が、震災時、初動対応の要塞となった。

田村光さんは、陸前高田ドライビングスクールの取締役。父が2代目の社長だ。
アメリカの大学を卒業し、東京の造園会社で勤務した後、この地へ帰ってきた。

あの日、高台にあるドライビングスクールに出社していた社員は、全員が無事だった。
大学生の春休み期間でもある3月11日は繁忙期のため、全社員が出社していたからだ。
また、授業は毎時10分スタート、00分終業のため、大地震のあった14時46分には
路上研修に出ている車もほとんどがスクールに帰ってくる時間帯であったことも幸運だった。
しかし、凄まじい揺れで校舎の2階の天井は落下。校舎内は騒然となった。

生徒と社員の無事を確認して息をつく間もなかった。約150名の生徒のうち、約半数が合宿生。
東京方面の生徒は、姉妹校である平泉校に一旦集合させ、スクールのガソリンタンクを提供することを条件に、田村さんのタフ・ネゴシエーションで大宮までのチャーターバスを確保。
北海道方面の生徒は秋田の空港に、県内の生徒は一人ひとり、全員を送り届けた。

もちろんその間、生徒の保護者が心配しているであろうことは容易に想像がついた。
県内の生徒を送っていく途中、田村さんは、1箇所電波がつながるところを発見した。
いつまでつながるかもわからない微弱な電波。
すぐさま「合宿免許」でインターネット検索し、一番上に出てきた会社に「陸前高田ドライビングスクール 全員無事」とメールを打った。
すぐに移動してしまった田村さんは自分のメールの行方を長く知らなかったが、一報を受けた東京都の運転免許学校は、考えられる手段を尽くしてその報を広知してくれたという。

田村さんの父、社長の田村満さんはすぐに「状況がどうあれ雇用は守る」と宣言。
陸前高田ドライビングスクールの新たな業務が始まった。
中小企業同友会を通じ、スクールには全国から物資が集まっていた。
物資の供給について市に掛け合うものの、4分の1を消失した市役所は通常機能するはずもない。
田村さんたちは、まず避難所の情報収集を始めた。もちろん、社員が足でかせぐ。
朝晩のミーティングを通じて情報共有をし、各避難所に物資を運び続けた。

ロジスティックだけには留まらない。
重機の免許を持っている社員もいれば、スクールには発電機もある。そして、業務用の車輌。
「できちゃうんだから、しょうがない。やるしかないでしょう」と田村さんが振り返るように
教習用の車輌は、その本来の本領を発揮し、瓦礫の撤去に向かった。

怒涛の毎日の根底には、田村さんのある覚悟があった。
「この場所から、津波が見えました。とんでもない高さ。
 あれを見たときに、大船渡に住んでいる家族をあきらめました。
 気持ちを切り替えて、生きているお客さんのために今できることをやろう、と。」
幸運にも、0歳と3歳の娘を含め、一家は無事だった。
しかし、田村さんが無事な姿をその目で確認するのは、ずっと先のことになる。
ひと段落した後に、避難所の名簿で生存を確認すると、すぐに職場へ戻った。一度職場へ戻ったらしばらく帰れないとはわかっていたが、“今すぐにやるべきこと”は山積していた。

毎日、支援物資を避難所に運搬し続け、40日後、通常業務も再開する。
津波で流された広大な敷地を見て、果たして生徒がいるのだろうか…というわたしの思いは
この日スクールの扉をあけた瞬間飛び込んできた学生特有の活気ある嬌声で吹き飛んでいた。
「この2月で、岩手県のトップは奪還しましたよ!」
ただし、もう落ちることはわかっているんですが――とも付け加える。
市役所業務や復興支援のため、名古屋から人材を受け入れる陸前高田市から協力要請があった。
通常3~4人で1室の合宿免許用の宿舎を1人につき1室貸し出すことになり、春からは生徒の受け入れを大幅に減らさなくてはならない。状況が長引けば、億単位の損失も見込まれるという。
落ち込む収益は、地元にとっても当然打撃だ。
復興支援の名の下に(たとえ名実が伴っているとしても)、地元の産業と民間企業に負担を強いることを、どう捉えるべきか。
「当然、それだけのことをしてくれるんだと思っていますよ。」という期待に応えないわけにはいかないだろう。

だが、初動対応で街の要となった経験も手伝って、田村さんには、官に頼る風は微塵もない。
「これ、見ます?」と言って、大きな紙をテーブルいっぱいに広げた。
一見しただけで地形からすぐにわかる、陸前高田市の湾岸地域の地図。
それは、“復興計画”として、市にも提案しているという、新しい陸前高田の未来図だった。
色々な専門家からも話を聞き、地に足をつけた復興計画を練っている段階だ。

思い起こせば、初めてコンタクトを取った際、田村さんはこう言っていた。
「復興は、心配しないで下さい。我々も心配していないです。」
物事を動かす力。まさに物理的に、人と物を動かし続けてきた一年間。
肩に乗っている“陸前高田の未来”は、田村さんにとっては“荷”でもなんでもなく、自分が生きる当然の道程なのだろう。

2012/04/25 12:00 | yuu | No Comments