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2012/04/20

地球の舳先から vol.235
東北/被災地 定点 vol.2(全7回)

美容師・西條智子さんは、今年2月2日、陸前高田市内の新店舗で営業を再開した。

母の濱守民子さんも美容師であり、西條さんが小さい頃に独立し、店舗兼住居を建てた。
西條さんは、3人きょうだいの中でただ1人美容師の道を選ぶ。
上京し、東京の専門学校を卒業後、東京と地元を往復しながら働いていたが
母の疲労骨折や祖父の入院という事情もあり、本格的に店を継ぐことを決める。
キャリーケース1つで陸前高田に帰ってきたのは、2011年1月のことだった。

店舗はまさに海沿いにあり、津波で真っ先に被害を受けた場所にあった。
西條さんも、津波が波打つのをその目で見たという。
数日前の余震では数十センチほどの津波が来ており、これほどの被害規模は想像しなかった。
父の先導で避難所である体育館へ駆けつけるが、すでに人でごった返していた。
「混んでいるから、別のところへ行こうか…」
そう言って、より遠くの高台へ移動。この判断が、命運を分けることになる。
津波の被害によりその場所は避難所ごと流され、数人の生存者を残すのみとなったのだった。

岩手県内陸の一関市に住む弟の圭さんも、真っ先に陸前高田へ駆けつけた。
震災当日は交通が封鎖され、翌12日に朝から山を迂回するルートで陸前高田へ入った。
避難所を探して回っていると、当時の西條さんの恋人であり、現在のご主人とばったり会った。
多くの場所が津波に流された陸前高田では、残る避難所は限られていた。
“生きていれば”――1日も探し回れば必ず見つかるはずだったが、家族の姿は見当たらない。
2人とも言葉少なに、しかし心の中に凝り固まった疑念を口に出すこともできず、
その晩、圭さんは少し離れた広田湾のほうにある彼の家に泊めてもらったという。
その3日後、ようやく母の友人のところに避難していた西條さんとようやく再会を果たす。
東京では、偶然連絡の取れた西條さんの美容師仲間がGoogleのPersonFinderという生存者情報サイトに登録し、後方支援してくれていた。

しばらく母の兄宅に避難し、5月に仮設住宅に入る。
「みんなで東京に移ろうか…」
学生時代から東京で暮らした西條さんには土地勘もあり、東京での生活に不安はなかった。
陸前高田にはもう土地も無い。家の借金も残っている。
東京に移り、みんなで集まって稼げばどうにかなると考えたが、父母は反対した。
震災前の美容室れもんは、地域の憩いの場の役割も果たしていた。
震災後、周りの要望に応える形で、施術を行うようになった。
仮設住宅のキッチンに鏡を置いただけの簡素なスペースが、西條さん親子の仕事場になった。

「震災の前は、陸前高田に帰るのも躊躇っていました。」
出来ることなら東京で仕事をしたいと思っていたが、震災後は地元への思いも変わった。
お店をもう一度建てよう。この地でやっていこう――
母娘はまさに二人三脚での美容室再開に奔走する。

2店舗集まれば仮設店舗を建ててもらえるため、まずはパートナーを探し、土地を提供してくれる知人を当たった。
しかし仮設店舗を建てる資材の不足で、夏を予定していた完成は10月、12月と徐々に延びてゆく。
市が建ててくれるのは上物だけだったが、大工の父を中心に、一家総出で内装工事を進めた。
復興需要で多忙ではあったが、「お父さんには1カ月仕事休んでもらいました!」と言う通り
自身の生活もままならない時期から、お店を中心に一家は団結し、2012年2月2日、営業を再開した。

美容室れもんのお客さんは、季節はずれの吹雪のこの日も、途切れることがなかった。
テキパキと明るい民子さんが、長年この地で築いてきた人望と信頼だろう。
機材は、業界団体からの貸し出しや、西條さんが東京で働いていたときの仲間が贈ってくれたものもある。

「先の事はわからないけれど…私はここで、頑張っていきます。」
今、西條さんのお腹の中には、新しい命が宿っている。
生を紡いでいくこと。”家族”というものの本質を、なお一層見つめ直させられた。

2012/04/20 02:00 | yuu | No Comments