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広告人・吉田透氏の場合
メーカーの実直さを肌で知り、売り場視点のマーケターへ。
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SE(システムエンジニア)。
吉田さんの最初のキャリアは、意外な職種だ。
全社のオンライン化をいち早く整備し、イントラネットに取り組んでいた博報堂で、
新卒では最多となる6人もがその部署に配属された。
吉田さんは理系でもなんでもなく、大学の専攻は言語学。
「北海道で、役者をやってたんですよね、僕。」と、振り返る通り
演劇、写真、絵と広く芸術に親しみ、大学に残ろうかとも思っていたという。
世はまさに広告代理店が華の職種ともてはやされた時代。
大学で、古文書の解読研究をしていた吉田さんを、当時の人事は
「言語学ができるなら、プログラミングの言語もわかるだろう」
と、ずいぶんと拡大解釈をしたらしい。
配属され、プログラム言語よりも先におぼえたのは大阪弁。
オンライン化過渡期のそこで2年間。
実務から離れた場所は、逆に社内を見渡すきっかけになった。
やりたいことを見つけよう、と思ったとき、マーケティングに行き着いた。
「マーケの方が、クリエイティブ。クリエイターは、言葉を書くか、絵を描くか、だけに見えていた。」
そのマーケの仕事を吉田さんは“まじめ”と表現する。
当時のクリエイティブが不真面目だとは言わないが、たしかに全盛期の広告代理店では、
お金も規模も「行き過ぎた」クリエイティブは多くあったのだろう。
そんな根幹が形成されていったのは、念願かなってマーケへ異動し、最初のクライアントを持ったときのことだった。
主要なクライアントごとに分けられていたマーケの部署で、
既存の枠組み—無論、既存の“取引先”という意味でも—に収まらない仕事をする
新しい部、「マーケティング5部」が発足した。
出向から戻った名物部長がクセのある人間を集めて立ち上げたその部で、
吉田さんはリサーチの仕事から始めた。
「あと、企画書の清書。当時は、青コピーですからね。」
手探りだったが、その分、若い力への期待もかけられていた。
* * *
マーケターとして、最初に担当したのは製麺会社のシマダヤ。
「正直…、最初のクライアントの仕事で馴染めなかったら、田舎に帰ろうと思っていました。」
ところが、このシマダヤの仕事が、吉田さんの“今”をも支えていく原体験となる。
上司の“指導”で、吉田さんは一日中、製品が並べられているスーパーに立ち、お客さんを観察した。
端からは不審者にも見えそうだが、そこで吉田さんは様々な事に気付き、売り場視点のマーケターとしての視点を得ていく。
製品を手に取る瞬間、きっかけ、お客さんの表情。
「売り場やお客さんへの愛情っていうものを、あそこで覚えていったんでしょうね。」
クライアントにも恵まれた。新人ながらに大事にしてもらったともいう。
広告業はサービス業ではあるが、自らをクライアントの“下請け”と捉えた瞬間に、パートナー関係など築けなくなる。
スーパーに立った吉田さんのお客さんは、シマダヤではなく、シマダヤの製品を買うお客さんたちだった。初期の頃からバランス感覚を得、メーカーというものがどんなに「実直」かも吉田さんは肌で知ることになる。
当然、本業であるところの広告への不安も芽生えた。
本当にこの広告で、モノは売れるのか? かけたお金に見合う効果が得られているのだろうか?
一方で、商品にはスーパーで通りがかるだけでは知り得ない技術も隠されている。
「広告って、人の役に立つこともあれば、全く意味を成さないこともあるんだ」という思いを、強くしていった。
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次回予告/Scene3;
広告人・吉田透氏の場合
世界の景色を求めて、ワイデン+ケネディ トウキョウへ。
(2月22日公開)