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さて、前々回の記事では
僕以外のジャグラーの2005年IJA(国際ジャグリング協会主催のジャグリングフェスティバル)の活躍を書きましたが、
僕自身の思い出も書くことにしましょう。
僕はこれまで、2005年、2007年、2010年と3回IJAに行った事があります。
詳しく読みたい方は旅行記を過去書いたことがあるのでそちらを読んでもらうことにしまして、 この記事ではざっくりとした感じにします。
今回は2005年の話題です。
実は、僕は2005年のIJA参加が初めての海外旅行でした。パスポートを持ったのも初めて。
ついでに言うと、飛行機に乗ったのも初めてです。
飛行機の中では英語で映画がやっていて、内容なんか一切わからなかったのですが、
まったく眠くならず、目は冴えるばかり。
飛行機の中で11時間、ただひたすら「そこにいるだけ」という苦痛を味わいました。
ジャグリングフェスティバルの内容はまあここではおいておきまして、この年は前回の記事にも書きましたとおり、
チャンピオンシップのジュニア部門で1・2・3フィニッシュ、インディビジュアル部門の1位、チーム部門の2位、
と、9つ用意されているメダルの半分以上を日本人が掻っ攫うというすさまじい年でした。
IJAの会場でも受賞者以外の日本人に対する注目度も高く、
夜に行われるお酒と一緒に楽しむ飛び入り参加可能のステージイベントでは、「今日はジャパニーズショーだ!!」と言って、
多くの日本人ジャグラー(※おそらくIJAに来た日本人ほぼ全員)の出演から始まる特別なショーが組まれることになりました。
その流れで、当然僕も出演することになったのですが、
僕はもっぱら、その前の年に販売することになったシガーボックスのビデオ、「十八番」の宣伝ができたらいいかなー
程度の気持ちで参加したものでした(笑)
で、いざ出演してみると、もうノリが違う。
ボールの技で「ボックス」という技があるのですが、それをシガーボックスでやる、というネタがあるのですが、
日本人に鼻で笑われるこのネタがアメリカでは大うけ。大爆笑が起こったことには逆にこちらがびっくりしました。
ある技をやって失敗したとき、会場から、
“I can do that trick!!”というヤジが飛びました。
そのとき、すかさず
“Me too.”と返したのですが、これがまた大爆笑。
何が面白かったのか後から考えると良くわからないのですが、まあ、盛り上がればそれでいいのかもしれません(笑)
最後は、僕のオリジナルトリック、「レインボー」で締めましたが、
この技はアメリカのジャグラーたちも見たことがない技ですから、ものすごい大喝采が起こり、
なんと、スタンディングオベーションを受けてしまいました。
まさか、こんなところでスタンディングオベーションを受けようとは。
日本のジャグリングの歴史が動いたことを目の前で見られた喜びと、
このスタンディングオベーションを受けたことで、この年はもう満足してしまい、大満足で日本に帰ってきました。
(因みに、帰りがけにロサンゼルス・アナハイムスタジアムで当時ヤンキースにいた松井を見てきました。)
一方で、僕のシガーボックスはこれだけ世界的にも評価されているのに、
これまでジャグリングの大会にて受賞した賞は、2001年のJJFの「シガーボックス競技会優勝」だけ。
しかも、その競技会自体開催されたのは1回きりであり、あまり権威のないもので、果たして誇ってよいのかどうかわからないものです。
それは、技のレベルこそ世界クラスであるのだが……
・構成が上手くない
・本番になると緊張してしまい必要以上に失敗する
……ということが原因であったと思います。
周囲の一緒に練習していたジャグラーたちが、次々と権威のある賞を受賞する中、
僕だけが何の賞も取ることができず、周囲に対する引け目のようなものがあったことは否定できません。
このとき僕は社会人2年目でしたが、再度JJFに挑戦しようと考えました。
新しい思いで、ジャグリングに対して新たな気持ちで取り組むことのきっかけはこの年だったのではないかなと思います。
因みに、この年、世界ジャグリング協会から発行されている季刊誌”JUGGLE”には、
チャンピオンシップに出場した4人+1組のジャグラーを大々的に取り上げ、
また、IJAサマーフェスティバルの特集では、2ページにわたり、IJAに来た日本人ジャグラーを絶賛する記事が掲載されていました。
「このままでは、いずれIJAの”J”をいずれJapaneseの意味とされてしまうだろう」という言葉が印象的でした。
勿論、僕も取り上げられていて、
「シガーボックスも凄いが、観客に対するオープンな立ち振る舞いが素晴らしい」
と書かれておりました。