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2010/11/23

皆様、おはようございます。

ここに一人の刑事被告人がいるとしましょう。
犯罪の事実そのものは認めていて、
後は情状酌量の余地を検討して、量刑のみ、
という段階になっていると。

この時、弁護士が出してくる情状酌量の材料に対して、
色々な人の反応をテレビなどでやっていますね。

例えばこの被告人の境遇として、
生家が貧しく、あるいは親がシッチャカメッチャカで、
結果的に成人する頃には社会的弱者とならざるを得ず、
そのことが犯罪を引き起こしたとしましょう。

まあ、被害者側とたいていの一般人はこのように言います。
「そんな境遇の人は他にもいる。理由にならない。」と。

私はこれほど、人間の性質を無視した発言はないと思います。
確かにそんな境遇の人はいるでしょうが、
個々人に生来の能力の差はあり、
それは、精神の強弱で言い表されるものです。

世の中というものは、地位や境遇が低劣であることに対しては、
物質的な提供によって救済を試みてくれます。
しかし、精神的な救済や支援は遅れています。

ところが、一般の人たちはそこを考慮してくれません。
結果的に、精神的な弱者というものは
自己責任という言葉のもとに、
「優越感」という快楽の種にされてしまっています。
「自分はこいつより強い」という見下し精神ですね。

私は感じるのですが、
近代社会というものは、物質的な弱肉強食を
野蛮なものとして退けはしたものの、
動物として、弱肉強食願望は捨てられなかったのではないかと。
そのはけ口が、精神的弱者に対する罵倒に表れるのではないかと。

このことを、私は良し悪しで言うつもりはありません。
まずは問題を提示したいと思うのです。
次は、「ホメて育てる」という言葉から検討してみたいと思います。

2010/11/23 10:30 | bonchi | No Comments