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皆さん、おはようございます。
今日は、誰もが避けることのできない、
死というものを考えてみたいと思います。
生まれることは、死とセットです。
生じれば必ず滅する、これが有限の世界の理なのです。
さて、死には考えるべきいくつかの側面があります。
まず、死とはどういうことなのか、ということ。
その中に、どのような主観を抱いて死んでいくのか、
という死のプロセスの問題。
そして、死んだ後の問題です。
まず、医学的に死を考えるならば、
身体の老朽化による機能停止のことです。
脳死によって、少なくとも生きている時に持っている、
主観、つまり思考は失われます。
つまり、脳の働きによる主観の作用は成立しないわけです。
最初の問題は、その状態にどうやって、
何を原因として、どのような経過で至るか、という問題です。
病気でそうなるのか、そうならばどんな病気で、
どんな苦しみを経て死に至るのか、
他殺ならそれはどんな状況で、どんな方法で
死に至らしめられるのか、その時はどんな苦痛があるのか、
そういう死のプロセス、
つまりまだ生きている間の話が一つの側面としてあります。
死んだなら死んだで、次に問題となるのは、
死んだ後に意識が存在するのか、しないのか、
あの世、という別の世界、
つまり死んだ後の意識が活動する土壌があるのかどうか、
あるとしたらそれはどういう仕組みの世界なのか、
そういう問題です。
これらの問題は、そのままある現象に直結しています。
それは、「なぜ人は死を恐れるのか」ということです。
死ぬのが怖いといっても、理由は様々です。
死ぬ際に経験する苦痛に対して恐怖しているのか、
その後の魂、つまり主観の行方に不安があるのか、
もっと漠然とした恐怖があるのか、
人によってその理由は違うわけです。
これまで、こうした死に関する主観の問題について、
現代社会における伝統宗教はお茶を濁してきたし、
新宗教はどちらかといえば、脅迫まがいに使用してきました。
私はこの問題こそ、私が宗教に深く突っ込む原動力であった、
ということを自覚しております。
この問題について、安心できる解答なしには、
とてもではないが死ねないと思ったものです。
上記の問題のうち、死ぬまでの問題は
必ずしも宗教者でなければ扱えない問題ではありません。
むしろ、宗教者として考えると、問題が別のことに移行する、
という可能性さえ感じます。
例えば命の大切さ云々とか。
そこで、このシリーズは死んだ後の主観について、
考えていきたいと思っています。
次回は、日本人のあの世観について考えてみましょう。