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2011/11/28

小さなバスタブに浸かる子供の肌は、剥きたての桃に似ている。
ちょっと黄味がかかった白い肌にぽやぽやした産毛が張り付いた頃合いを見計らっていると、何が面白いのかきゃっきゃっとはしゃぐ。教えられたとおりのタイミングで抱き上げてバスタオルでくるむと、甘いような酸っぱいような匂いがした。

子供は真っ黒い眼をぱちぱちさせて、愉快そうに足をもじもじさせている。その小さい足にはさらに小さな薄い爪がついていて、ああ凄いな、と思う。こんなに小さいのに、まだこんなに幼いのに、親である自分と同じ機能がちゃんと備わっているのだということに僕は毎回感動してしまう。

僕は自分がこれくらいだったころの記憶を持っている。
人に話すと大概嘘のような顔をされるが、本当のことだ。もっとも、思い違いをしてしまっている可能性はあるけれど。

記憶の中で、僕はある男に湯船を使わされている。男の手はぎこちなく、もどかしいほど丁寧だ。うっかり力をこめて僕を溺れさせないようにがちがちに緊張した掌は、僕にとって快適なベッドとはいいがたく、むずかって少し泣く。すると母の声がして、あらあら泣いちゃったの、なんて暢気な声で笑う。男は僕から視線を外さず、困ったように眉をひそめて、難しいなあと呟く。それでも役目を譲るつもりはなさそうで、大事な大事な宝物を扱うように、僕の体に湯を掛けている。

物ごころがつくころには、僕はその男が自分の父ではないことを知っていた。伯父さんとだけ呼んでいる男のひとだ。今でも付き合いのある、母の古い友人のひとりである。父はおそらく僕を一度も風呂に入れたことはなかったろうし、母からそういう話を聞いたこともない。従って、僕はこの記憶が間違いなく現実にあったことだろうと認識している。

母ではなく父でもないものに湯を使わされた記憶は、あるからと言って得意になる性質のものではないし、忘れたとしても痛痒はないのだろう。けれど、僕にとって、少なくともあの時の僕にとって、他人に大切に扱われたという体験は人格の形成の基本に大きな影響を与えたものと考える。親が子を慈しむのはある意味で本能的なものだろうけれど、他人にとってもそうされたという経験は大きい。
あの手によって、愛されている、愛される価値があるのだと教えられた気がする。

この子供も、僕によって風呂を使わされた経験を覚えていてくれるだろうか。
自分の父親でもなく、血縁者でもないものの手によって、慈しまれた記憶を持っていてくれるだろうか。そうだといい、と微かに思う。忘れてもいい。でも、もし覚えてくれていたら。

「あなた、この子に遊んでもらってるの?」

知らぬ間にこの子の母となった恋人は、そんな僕と子を悪戯っ子のような顔で見守っている。

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花言葉:天稟
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

2011/11/28 10:00 | momou | No Comments