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2011/11/28

皆さん、おはようございます。

前から書いておりました「皇帝ティートの慈悲」、
26日に無事終演致しました。
おりしもこの日は大阪府知事、大阪市長のW選挙前日。
もちろん、それを意図して日時設定したわけではありません。
オペラの上演が決定していた方がはるかに前ですから、
選挙の方が勝手に27日の設定をしてきたわけです。
これまたもちろん、あちらが当方のことを知るわけはなく、
「皇帝ティートの慈悲」の翌日を意図しているわけでもありません。

「皇帝ティートの慈悲」は、解釈にもよりますが、
政治というものが背景となっているオペラです。
確かに起きることの背景は人間の欲望であること常の如しですが、
それを支えている状況的背景は政治なのです。
キャストは古代ローマの皇帝であるティート・ヴェスパジアーノ、
そして彼とごく近しい人たちです。

これを私は、トップに立つ者の孤独をテーマに構築しました。
そしてそのトップが没落する様も演出に取り入れました。
最後はティートの死のイメージとして、
当時囁かれた次の皇帝、弟であるドミティアヌスを黒幕とする
暗殺を採用して、フィナーレで使いました。

また、サイドストーリーとして、
この公演のための稽古期間中の出来事、という設定で、
ヴィッテリア役の歌手が友人のセスト役歌手と共謀して、
マエストロ役をマエストロの座から追放しよう、
という動きをしているが、という筋を取り入れました。
今回ティートを歌いながら指揮をしていましたから、
まさにマエストロの私に対して反乱を、という、
ティート本編と重ねたストーリー展開をしつらえたわけです。

本編のストーリーは、ティートの父親に追い落とされた
先々帝ヴィッテリウスの娘ヴィッテリアが、
ティートの慈悲を自分への愛と勘違いしてティートに惚れ、
皇后となる夢を持つが、ティートがそれに気づかず、
あまつさえユダヤ王女のベレニーチェを皇后にしようとするので、
自分を恋い慕うティートの友人、セストを使って
ティートを亡き者にしようとしているが、
結局その陰謀が露見し・・・
葛藤の末、ティートは全員を許す、というものです。

このような政治的なオペラの翌日に
大阪W選挙という歴史的な選挙が来るのも何かの縁、と思い、
開演前のプレトークでも、
「こんな大事な日に、こんなところで油売ってて大丈夫ですか?」
などと冗談を言いつつも、
知事であれ市長であれ、トップに立つということがどういうことなのか、
このオペラを機会に考えてみてほしい、と訴えました。
私については、歌よりも後姿をよく見ていてほしい、と。

そしてオペラを終えて27日、
もちろん選挙に行ってきました。
私は当選した橋下氏と松井氏に投票しました。
親父と妹、祖母の4人で行ったのですが、
私はこの2人に投票するにあたって、
直接的に「大阪を良くしてくれ」とは考えていません。

概観するに、反橋下を掲げる人々の中で、
マイミクを含む知り合いの方々の属性はこのような人が多いようです。
まず教員。そして音楽家。
確かに教育関係者については、ここ最近の方針をつぶすようなことを
橋下氏は提唱していますから、懸念の声はよくわかります。
音楽家などの文化系についても、橋下氏は冷遇してくれてますから、
そして音楽家への直接の発注元であるのは、
橋下氏が切り捨てようとしている「役人」ですから、
正直なところ仕事にとって一大事です。

私も仕事したことのある青少年会館が、
橋下氏が知事となったことで閉館になりました。
そのこと自体は残念なことですけど、
実際はその閉館がなければ存在しない出会いもありました。
9月に「劇場支配人」を上演しましたが、
その発起人が、そういう形の出会いであり、
その出会いなくして「劇場支配人」の上演はありませんでした。

このような悲喜こもごもの事情の中で、
私が橋下氏たちに期待していることはたった一つです。
それは、良くするにせよ、悪くするにせよ、
きっと彼らは極端な結果を出してくれるだろう、ということです。
もちろん良くなればそれで良し、
悪くなれば悪くなったで、それは極端であろうから、
その時こそ、「我こそは」という志のある人が登場するだろう、
ということに期待するのです。
幸い現代社会というのは、昔と違って、
為政者がよろしくないとなれば、命の危険がない状態で
交代させることが可能です。
反逆者だといって捕えられ、処刑されたりすることはありません。

また、最近私が選挙にこれまで以上に興味を持つのは、
2006年以降、自分がトップに立つことがあるからだと思います。
2006年にはオペラの指揮者としてトップに立ちました。
2008年には、マイミクのロドルフォ君の団体である
Primo musicaでモーツァルト・ガラを指揮しました。
実際にはこれはロドルフォ君がトップなのですが、
演奏会本体においては私がトップを務めています。
この時など、特にオケのメンバーが募集段階において、
私がトップであるかのように接触してきまして、
自分がトップであることをはっきりさせたい性質のロドルフォ君との間で、
私が大変気を遣ったことは記憶に新しいところです。

2010年からはお好み工房ほわっとで、「ポッペアの戴冠」以降、
指揮&演出という、視覚と聴覚両面でのトップを数公演担っています。
こんな立場を何回も経験すると、トップとは何なのか、
自ずから考えざるを得ない心境になるのです。
実は去年の後半からやっと、自分に牽引力がついてきた、
という手ごたえが得られてきているところです。
「ポッペア」よりは「フィガロ」、
「フィガロ」よりは今回の「ティート」という形で。
秘訣は何かというと、こちらのプランを
下手に遠慮せず、ストレートに要求する、という一点です。

実はこれまで、「独裁者」を避けようと考えていたのですが、
そうすると、余計に下心があるように見えたり、
無理な要求をしているように見えたりするものなのですよ。
逆に「独裁か」と自分では思ってしまうくらいに、
ストレートに要求した方が、気持ちよく応じてもらえるようです。
ですから、橋下氏が「独裁」という言葉を形容詞として用いたことは、
私にとってかなり納得できるのです。

少なくとも私のような性質の人間が、
「反独裁」を目指そうとするとどうなるか、
これまでの結果でわかってきましたし、
そんな過去の自分に区切りをつけ、
決別する意味も込めて、
今一度「反独裁」「寛容」「慈悲」を演出しようとして、
かえって没落する姿を自らの意思で演じることにしました。
これが、この「ティート」の個人的な意味合いでした。

そして今日、維新の会が知事、市長を占めたこと、
少なからず感動しています。
それは、彼らのマニフェスト云々というよりも、
大阪を変革しよう、という熱意が彼らに道を開いた、
ということにです。
もちろん中には受け入れがたい方向のこともありましょうが、
そこは是々非々で、ノーを言うところは言いつつも、
まずは存分にその手腕を発揮していただきたいと思っています。
これは、理ではなく、トップを経験している者としての情です。

もしこの先、彼らの欠点を補うために、
熱意をもって立ち上がる志の人があれば、
喜んでその人に一票を投じるでしょう。
私は「橋下派」ではありません。
「熱意派」なのです。
なぜならば、私も「熱意」ゆえにトップをも辞さないのだから。

2011/11/28 02:27 | bonchi | No Comments