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ペンタブレットというのは、便利なものである。
書きたい事がそのままパソコン上に表示されるので、
イラスト好きな私にはこたえられない。
つい、自分で決めていた毎週木曜日に原稿をアップする、
というのを逸脱して、絵を描いて一日終わってしまったことに後悔。
できたのがこの一枚だけなんだから、罪は大きい。
さて、コマの芸の歴史を調べているのだけれど、私の父方の祖母は、
金沢藩の下級武士の家柄だったらしく、
明治からは骨董店をしていたそうで、芸好きから祖母は若い頃、
芸者衆に三味線を教えて生計を立てていたと聞く。
富山県、井波の出身であるので、木彫りの彫刻も、私の身の回りの子供の記憶では、
懐かしいものが、どこかにある。
祖母が、諸事情あって東京に出て、赤坂・一ツ木に駄菓子屋さんを営んだのは、
父が生まれてすぐのことだから、ほぼ、父は東京、赤坂生まれで通っている。
物書きの、吉村平吉先生。
もう亡くなったけれど、赤坂小学校へ、一緒に通った竹馬の友。
私も、この先生の出版記念パーティーや、「雑学倶楽部」の余興、そして
父・源氏太郎と母・このみと一緒に出た、
「源氏太郎ファミリーショー」を、プロデュースしてくれたのは、吉村先生だ。
戦後の混乱期に、丸焼けになった赤坂の自宅跡には、
赤の他人がちゃっかり住んでしまっていて、祖母はどうにもならず、
結局知人の世話で、文京区後楽園近くの借家住まいになった。
そんなめちゃくちゃな時期の、浅草あたりでの吉村先生と父の再会が、面白い。
「ちょっとお兄さん、いい女いるから寄ってきな」
「何だお前、へいさんじゃないか」
「…?かずおちゃんか?」
…当時、父は半分ヤクザの手下みたいになりかけていた。
この時、盛り場の闇市のショバ代を取り立てに、食いブチ稼ぎで見回っていたそうだ。
片や、チンピラ、そして、ポン引きの竹馬の友。
どんな顔をして、お互いを見たのか、現場に居なかったのが、残念だ。
(生まれてないし。)
祖母が心配していたところだったが、何とか、芸を頼りに米軍キャンプでの、
余興探しの車に乗り、各キャンプでの母譲りの三味線、独学のハーモニカ・タップ芸で、
這い上がる事になったのである。
これから後は、落語の師匠になる、春風亭小柳三師に入門、
今の、入船亭扇橋師、古今亭円菊師とは、同期。
ところで、昭和ヒトケタたる、同世代の話が通じる人は、もうあまり多くなくなってきた。
先日、立川談志師が、亡くなったけれど、
談志師も、父の芸は「はちゃめちゃ」と、言っていた。
私的には、褒め言葉だと思っているが、芸はやはり、
一人一人の芸人自身が育てていくものだと言う事を、痛感する。
くれぐれも、今、同世代でリアル体験できる芸を、可愛がって欲しいものだ。
実際に、その場で同じ空気を共有してこそ、客席の空気の震えからくる笑いの波を、
感情の起伏を、体感できる。
その良さは、明治時代、大量の海外文化の流入の頃に、
海外へ芸を持って出て行った、大道芸や、太神楽、曲独楽、足芸、
和妻、水芸の芸人達が、身体を張って、
そして、国内では、寄席を中心とした大衆文化が、作ってきた歴史である。
今、様々な研究がされているけれど、芸自体をとりまく環境は、
今とは、あまりにもかけ離れているので、
今後、資料を調べていく都度、他の広い情報も集めて比較して、
自分のじいちゃん、ばあちゃんの話くらいには、実感できるように、
少しでも今現在、わかりやすいようにしていきたい。
…にしても、時間がかかるなあ…またイラスト描きにはまりそうである…