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2011/10/27

第一回の自己紹介の原稿の続きを、書かせていただきます。

つながりが途切れた事、ごめんなさい。

 一番最初の自己紹介で書いてあるけど、私は高校の時芸術鑑賞会で歌舞伎を観て、伝統芸に興味を持った。その面白さが、父の芸の仕事の中にも欠かせない事が、芸人の子なのに恥ずかしい話だけど、この頃初めてわかったわけ。

だから、テレビでよく着物を着てコマを回しているお茶目なお爺さんの弟子になるとは、想像すらできなかった。

そんな1980年代始めの当時、日本の芸の中で、伝統がある万人向けの太神楽曲芸や、コマの曲芸の曲独楽は、若い後継者が育っていなかった。だから、いつも日本の伝統の曲芸をしている人のイメージは、お爺さんか、おっちゃんの印象しか持っていなかった。

 父は、知人であるコマの曲芸の師匠から、若い人を育てる為に曲独楽を教えているという話を聞いて、高校卒業を控えた私に入門を勧めた。私も、くわしく憶えていないのがやっぱり情けないけど、曲独楽の演技をテレビで見ている時に、両親がこの師匠の弟子にならないかと、私の気持ちを確かめてから、弟子入りの話を持っていこうということだったようだ。

でもそれは、お師匠さんが病気になってしまった事で、立ち消えになった。

 本当に残念だったけど、きっとまた回復したらご縁があるに違いないから、ということで、私は普通の就職をすることに。進路指導の先生が、極真面目な普段の態度から、私を銀行就職へ導いてくれて、結局銀行員になった。

 私のコマの曲芸、曲独楽の舞台運びで個性の基本を成している感覚のひとつに、間違いなくこの時期、銀行員としての数年間の考え方が影響していると思う。

そういう事も今になったらわかる話だけれど。実際、銀行員の当時は、本当にただ忙しい、バブル期毎日残業時代。

 想像できない読者さんの為に、ちょっと書いておくけど、当時は、電信電話公社がNTTになったり、お札がデカイ聖徳太子や伊藤博文から、今の小型紙幣に変わった時。

今はどこにでもある振込みができるATMだけど、当時は本店か、大きな支店しか置いていなかった。だから、そのお札の小型化とほとんど同時に、銀行内の両替機や、ATMは、新しい機械に総入れ替えされ、それに対応する準備を、期限までにマニュアルと格闘して身につける必要に迫られていた時。

私が通ったのは商業高校だから、コンピューターのプログラム、タイピングの実技など結構役立つ授業を学べていた事もあり、私が3年間担当した主にコンピューターでの振り込みは、仕事としては向いていたようで、何とかこなすことができた。

 でも、当時の大きな出来事、NTTの民営化で、株式を300万円から一般販売という事が発表され、定期預金よりもNTTの株を買うために解約するお客さんが山のように来たりする、昔からの常識がすっかり変わってしまう現実、時代の猛烈な流れの変化を、いやでも目の前で見なくちゃいけなかった。

私が銀行員だったのは、わずかに5年間だけど、当時の金銭感覚は、桁がはるかに違っていて、今考えても、世の中のお金にまつわる変化の速さや、怖さについて、本当にいい勉強になった。

そういう流れの変化についていけなかったら、どうなるのか、それは本当に恐ろしい事のように思えた。

 私のいた内国為替を新人にバトンタッチして、窓口業務を経験し、さてこれから数々の研修を受けて資格を持って上にあがってはどうか、と勧められる5年目…。

 このまま日常を銀行の中で過ごしていたら、いい事は無いんじゃないかな。

 私にとって、家の仕事である芸の事は、私自身に一般職とはまったく別の社会観があったからか、やがてお金を貯めて芸の世界へ入っていくという事は、住み慣れた家に帰っていく時の感じにも似ていた。

 だから、結局23歳で退職。

 タイミングというのは、結構何かの指針になる事があると思うけど、私にもやってきた。

 コマの師匠の病気が回復、舞台にも立てるようにリハビリも順調であるという連絡が、とうとう来たのだった。

 Kyokugomamiya2

両親の励ましを得て、芸人修業に入る決心がつく。やはり事務職にしても、金融商品を売り込む仕事でも、自分の意思がまったく余計な事であり、お客さんの生活を良くするようなアドバイスだって、社会経験も無い状態では、出来るはずもない。自分の意思を固める崖っぷちに、銀行員を選んだのは、今でも正解だったと思っている。

 退職後数ヶ月は、母の指導で三味線、父から会いに行くように言われた人、勉強するべき事など、忙しく動く。入門予定の師匠の体調が整うまで、もう少し待つのを幸いに。

 意外な事に、退社してから半年たたないうちに、銀行から、東京の事務処理を集約する築地事務センターに、パートで来ないかと言われ、歌舞伎座の並びにある事を幸いに二つ返事。

知り合えたパート仲間、実際に家庭のやりくり経験者と親しく出来た事が、バブルで曲がりかけた私の経済感覚のずれを修正してくれた。一億の札束を足元に置いて、忙しいのでそれが単なる紙の束にしか見えなくなっていたくらいだから。

昼休みに築地の寿司屋、銀座のフランス料理、新富町のサンドイッチ店、新橋の洋食屋と、東京生まれの私でも知らない穴場を、主婦感覚と一緒に教えてもらった。

私は毎日、終わると歌舞伎座に直行する。丁度幕見席でいい時間だから、片っ端から見た。もう、先代の仁左衛門丈の最後の舞台の頃だったり、絶好調の猿之助丈、吉右衛門丈、それに先代勘三郎丈と勘九郎丈の舞台も見られた。私の見るポイントは、これからの舞台上での芸人としてのお手本を探す事にあった。後見、主役の後ろに座って、道具を渡したり、衣装を換える手伝いをする人、そして脇役の動きを見て、今後、師匠について後見する時の身の置き所を勉強した。

抑えた所作はとても難しいものだった。これは専門の師匠につかないと。舞台上での考え方とか、目線など、気になる事がたくさん。早速、自宅から通える日本舞踊の先生の門を叩く。待っているより、すぐ行動。

 思ったよりもずっと、その時期は私にとって大事な時間の過ごし方を体得する機会となった。自分の性癖を乗りこなす方法を得たという事、それはまた別の話。

 舞台感を得るために、源氏太郎ファミリーとして、すぐに出られる芸、南京玉すだれを、手品のH先生に教えていただいた。

 芸名は父が名づけてくれた。源氏うらら。

 ぼーっとしているから、こんな名前なのだ。

 次回は、初舞台から、寄り道の誘惑の話…。

秋なので、食べ過ぎに注意しましょう!

2011/10/27 11:59 | miya | No Comments