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2011/10/17

――いらっしゃいませ、はダメだからね。
研修初日、母親と同じ歳くらいのおばちゃんにいきなりそう言われた。おばちゃんはこの道18年のベテランで、どのスーパーにも馴染みの店員とやけに親しげに挨拶をかわしつつてきぱきとスタンバイする。持参のホットプレートに手際よく油を塗り、小皿とゴミ箱を用意して開店。
その瞬間に、おばちゃんはさっとこちらを見て真顔で言った。俺はまごついて、はい、と返事をするのが精いっぱいだった。

開店と同時に、スーパーには主婦の群れがなだれ込んでくる。
今日は武蔵小杉の店に来ていた。激安が売りのこの店は開店直後と夕方にタイムセールを行う。この店に卸しているうちの食品も八割方この時間で売れる。売れないときはほぼオケラだ。そのシビアな現状を体感して来いと、わが社の一年目は伝統的に二週間の店舗研修に放り出される。
二週間、俺はこのおばちゃんにくっついて都内のスーパーを回ることになっていた。最初、引き合わされたときにおばちゃんはお荷物が来たと露骨な顔をしていたが、現場仕事が全くできないと知ってかえって教育魂が燃えたらしい。客足が途切れた時をねらって、小声でちょこちょこと指示を出してくる。

「あんたね、黙って突っ立ってるなら案山子でも出来るのよ。しゃべりよ、しゃべり」

おばちゃんは折に触れて俺に言う。
試食販売の肝はトーク。おいしいを連発するのではなく、その商材を使ったレシピを織り交ぜつつ、笑顔で押す。おばちゃんは確かにプロだった。笑顔で客を呼びとめ、程良く焼けたソーセージを差し出す。食べさせる。買わせる。なれなれしいと思わせられる語り口のくせに、嫌悪感を与えない絶妙な距離感。俺には全く歯が立たない。

「当たり前でしょ。あたしはこれで飯食べてるのよ。一日二日で追い付かれてたまるもんですか」

尤もなご意見で、俺は落ち込むことも許されず、笑顔を特売しながら自社製品をひたすら焼いて進めて自分でも買って食べてみた。料理はしたことが無かったのでおばちゃんに意見を求めつつ、レシピ開発にも勤しんでもみた。俺のレシピで商品をカゴに入れてくれた時の嬉しさ!
思わず振り向くと、おばちゃんはバチンと音付きでウィンクをくれた。

――いらっしゃいませ、ではダメだからね。
最初はなんだ客商売のくせに何事だと思ったが、店頭に立ってみて初めて実感することもある。確かに「いらっしゃいませ」ではダメなのだ、俺たちの仕事は。本社に戻ったら、多分そんなことを実感できる機会は少なくなるんだろうけど、俺は覚えておきたいと思う。
悪戦苦闘している研修のこと。初めて自分の手でお客さんに商品を売った喜び。
あのときのおばちゃんのウィンクと、チャーミングな笑顔を。
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花言葉:小さな強さ
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

2011/10/17 07:51 | momou | No Comments