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寂しくなると、つい眺めてしまうものがある。
例えばそれは家族の写真だったり故郷の風景だったりするのだろうけれど、わたしの場合はインターネットのパノラマ写真だ。かなり被写体となる路地や壁に接近して映されるのは、定点を巡回されるカメラによって切り取られた路地の記憶である。膨大な資料をもとに表示される、かつて住んでいた街、馴染みの総菜屋、懐かしい風景。
網の目のように張り巡らされた記憶とこのパノラマ写真は、おおまかなところ、だいぶ似ている。
家を出た日の記憶は残念なことにほとんど曖昧になっている。
わたしのことだから多分売り言葉に買い言葉で飛び出してしまったのだろうとは思うが、それが一体どんな言葉だったのかはもう思いだせない。積もり積もった鬱憤を近所迷惑なボリュームでわめき散らしたような気もする。大急ぎで無理やり荷物を詰め込んだ鞄がやけに肩に食い込んで痛かったことだけは、10年たった今でも鮮明に身体が覚えているのだけれど。
パノラマ写真に写される家は昔とちっとも変らない。
切り取られた小さな景色だけでは、中の生活を伺うことはできない。もっとも、昔からその傾向はあった気がする。環七に近いから排気ガスが嫌だと言ってほとんど部屋干しばかりだったし、夜型の母はほとんどまともな時間に買い物に出たことがない。写真の中にかすかに映る空は大抵青空だったから、もしまだ母がそこに住んでいるとしても、映り込むようなことはあり得ないように思われた。
わたしと母はよく似ていた。
沸点が低いところ、何かをやり出すと周りが見えなくなるところ、愛想があまりないところ。そのくせ意地っ張りで周囲と上手に和を作れないところなど、厭になるほどよく似ていた。だからわたしは帰るに帰れず、離れた街で一人で住んでいる。木の股から産まれたみたいな顔をして、一人きりで生存しています、みたいな風情で、生きている。
母もまた、そうなのだろうか。
連絡を取ろうと思えばとれただろうと思う。わたしは本籍を変えていない。たどろうと思えば、いくらだって方法はあっただろうに、あの日から母の声を聞いたことがない。
いつか帰ろうかと思わなくもない。ごめんと謝って家に入れてもらおうかと思ったことも、ある。
でも、母がこの家に住んでいる限りは今じゃなくてもいいような気がして、一方的に自分が折れるのも嫌で、わたしはずるずると時間を稼ぐ。
もうじき、あの時の母と同じ歳になる。
そのときは、眺めるだけのこの風景を、自分の目で見てみようかと思いながら、わたしは深夜小さく用意された懐かしい風景を、母の住む家を、そっとモニター越しに眺めている。
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花言葉:優しい想い出
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。