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2011/09/11

こうして、お姫さまと王子さまは長い長い旅に出た。

おとぎ話と違うのは、旅の始まりがめでたし、めでたしで終わらなかったことだろう。箱入りの娘と息子が手に手を取り合って暮らすのは、本当に大変なことばかりだった。勝郎くんの絵を買いたいと言ってくれていた画廊に連絡を取り、方々に伝手をたどって、部屋を借りてもらえた時の嬉しさ。家賃の代わりに、勝郎くんは今まで書きためてきた絵を全部売った。賞に出せばもっと値が上がるのにと恨みごとを言われながら、勝郎くんは売り叩くように手持ちのものは手放した。
売らなかったのはたった一枚、わたしの絵だけだった。

小さな小さな、それこそアトリエの半分に満たない広さの家。
それがわたしたちのお城だった。そこを維持するために、わたしも勝郎くんも毎日くたくたになるまで働いた。警備員。工事現場。皿洗い。ビルの清掃員。スーパーのレジ。訪問販売。保険の勧誘。ポスティング。新聞配達。履歴書いっぱいになるほどの職業。そのどれもがとても大変で、辛くて、でも、お給料をもらったときは本当に涙が出るほど嬉しかった。

勝郎くんは絵を描く時間も絵を描くためのお金もなくして、この生活を支えてくれた。筆だこしかなかった綺麗な手をすり傷だらけにしても、お腹が大きくなっていよいよ働けなくなっても、勝郎くんは泣きそうなそぶりひとつ見せなかった。

「勝郎くん、ごめんね。わたし、あなたから絵を取り上げたんだね」

耐えきれなくて、そんな言葉を吐き出してしまったときですら、勝郎くんは大丈夫だと言ってくれた。絵を描くために生まれてきたようなひとに、守りたいと思ったひとに、わたしは縋りついて重石をつけた。この人は絵を描いてなきゃいけないのに。

「違うよ、さっちゃん。おれは今絵を描くことよりもやりたいことがあるんだよ」

例えばこうやってさっちゃんといちゃいちゃすることとか、なんて言って、勝郎くんはわたしにじゃれてくれた。猫をあやすように丸くなったお腹に触れて、疲れ切った顔を隠さずによしよしと頭を撫でてくれた。
勝郎くんは強かった。捨てたものの大きさも、きっとわたしより大きかったはずなのに。

「さっちゃん、ありがとね。……ねえ、やっぱり、おれの言った通りだったでしょ?」

勝郎くんがわたしの前で泣いたのは、たった一回だけだった。生まれたばかりのしわくちゃの娘を抱いて、勝郎くんはぽろりと涙をこぼしていた。赤ん坊がむずかって、あわててその涙も引っ込めてしまったけれど。

「女の子には世界で一番きれいな色の名前をつけようって、おれ、前に言ったでしょ?」

わたしは頷いて、勝郎くんの手を握った。二人で生きようと決めた時にそうしたように、強く強く握りしめた手は前よりずっと逞しくて、嬉しかった。

娘の名前は勝郎くんが決めた。美しい色の名前。神秘的な石の名前。鮮やかな夜明けの空の名前。この世でいちばんうつくしい名を持つ娘。地球のなかで一番きれいな色なんだだよ、ともう世界を回れなくなった人が幸せそうに言ったことを、わたしは一生忘れない。

娘が生まれた日、わたしたちは話しあって籍を入れた。追いかけられるのが嫌だからとそれまでわたしが渋っていたのを、娘のためにと説得されたのだ。勿論それはお互いの親にも伝わっただろうけれど、一緒に提出した出生届が効いたのか、どちらも何とも云って来なかった。

娘が生まれたこともあって、わたしたちに貯金らしき貯金はほとんどできなかった。どんなに働いても、やりくりを頑張ってみても、通帳の残高は毎月3ケタギリギリというところだった。でも、毎日が充実していて、ああ生きてる、って思えた。

それに、苦しいことばっかりでもなかった。娘が小学校にあがったころ、勝郎くんはまた絵を描くようになったのだ。一枚目は、娘の寝顔。二枚目は、娘の寝顔。三枚目も、娘の寝顔。どちらに似たのかじっとしていることの少なかった娘をモデルにして、勝郎くんはせっせと鉛筆画を増やし続けた。きちんと色まで付けて描いたのは、たった一枚、渋る娘をアイスで釣って写し取ったおしゃまな笑顔だけだったけれど。

「ね、さっちゃん。おれは間違ってなかったでしょ?」

勝郎くんはガソリンの匂いをぷんぷんさせて、出来あがったスケッチを見せてくれた。娘はあたしもっと可愛いもんって大騒ぎし、わたしは勝郎くんと顔を見合わせて、大きな声を立てて笑った。

嬉しかった。幸せだった。――勝郎くんが事故で死ぬまでは。

勝郎くんが死んだことを、わたしは誰にも知らせなかった。お葬式もしなかった。娘と二人で小さな骨を拾い、壺に収め、それは今でも部屋に飾ってある。勝郎くんが寂しくないように、わたしが寂しくないように。

わたしたちは本当によく話す夫婦だった。話さなかったことといえば唯一、あの絵の秘密くらいだろうか。なんど尋ねても、勝郎くんは笑って教えてくれなかった。あれはお父さんの秘密だよ。そんな風にはぐらかして、いつの間にか、勝郎くんはひとりで童話の世界に行ってしまった。

残されたものは多くない。わたしと、娘と、秘密。それから勝郎くんの描いた娘の素描。

それらの作品を、わたしは今日、画廊に渡してきた。タイトルは、と聞かれ、少し迷って娘の名前を告げる。二人でここにたどり着いた時に力を貸してくれた画商は、受け取ってからも少しだけ不満そうな、驚いたような顔をした。

「ほんとにいいの? 遺作って大体は遺族が持ってるもんだよ。売ったらそれきりなのに」
「いいんです。わたしより、多分この絵が見たい人がいるはずだから。でもその代わり、」

うんと高い値段から始めてください、とわたしは云った。

「売れなかったら、それはそれで構いません。本当に欲しい人がいれば、きっと買います」
「奥さん……それ、バクチだよ」
「そう。わたし、賭けをしているんです」

首をひねる画商を拝み倒すようにして、あるオークションへの出品を頼み込む。勝郎くんは名を成した画家ではないからと渋る画商を説き伏せながら、わたしはその時、父の顔を思い浮かべていた。

新聞で見る父は、この頃かなり痩せてきている。なにか病みついたひとのような顔色の悪さ、やつれ方だった。癌、だろうか。それとも何か別な病気でもしているのだろうか。そう思っても、飛び出した手前、見舞いに行くことなんて今更とても出来なかった。

そのかわり、わたしは勝郎くんの絵を売ることにした。頼み込んだオークションは絵画好きなら必ず楽しみにするような、大きな新聞社の主催のものだ。出品作は分厚いカタログにも掲載されるし、新聞でも株主には招待券を配ったりする。そして父は、その新聞社の筆頭株主だ。

気づくのも、気付かないのも父の自由。でも、父ならきっと気づくだろうと思った。
これはサイン。わたしが父をもう許しているという徴。
勝郎くんの絵に惚れこんで、秘密を共有するほどの思いがあった父なら、きっと、気づく。この絵に隠されたわたしの秘密も、きっと読みとってくれるはず。 

「売れますかねえ」
「売れます。心当たりがあるんです」

わたしは確信を持って頷いた。
そして考える。
もしこの絵が売れたら。娘の名を冠したこの絵を破格の値で買ってくれる人が現れたら。
わたしは娘に話そうと思う。
王子様とお姫様の恋の物語。その王女様に与えられた名前の秘密。その誕生に隠された、たくさんの希望と喜びとほんのちょっとの涙のこと。
娘はまだ幼いから、恋の話はまだ早いかもしれない。
だからこれは、未来の話。

これは未来の、恋の話だ。

フューチャー・ラブ おしまい

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※この物語は2011年9月11日に上演されるJunkStage第三回公演の物語を素材としています。(作・演出・脚本 スギタクミさん)
※長々続いたこの物語も、これで最後になりました。掲載を快く許してくれたスギさん、お付き合いくださったあなたに、心から感謝をこめて。

2011/09/11 10:41 | momou | No Comments