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それから先は、文字通り冒険だった。
わたしは生まれてはじめて一人で電車に乗った。切符の買い方がわからなくて手間取ったけれど、親切な人に助けられて人生初の車窓を覗いた。小さな家が沢山集まっていたり、ぽかりと橋の下を流れる川が見えたり。どの景色も、いつか勝郎くんの見せてくれたスケッチに載っていそうな、あたたかな眺めに見えた。
駅からは交番で道を聞いた。まだ若い警察官はうさんくさそうにしながらも、親切に道を教えてくれた。右、まっすぐ行って信号を左、右、右、左に曲がってあとは目の前の大きな家だよ。御礼を言って頭を下げると、いいよというように手を振られた。
頭の中でなんども道順を繰り返して、言われた通り大きな家の前に出た。表札は勝郎くんの名字と同じ。これだ、と思った。門の前には人のよさそうな守衛さんが立っている。
「あの。勝郎くん、帰ってきてるって聞いて。学校の同級生なんですけど」
「ああ、勝坊ちゃんのね。坊っちゃんなら離れにいますよ」
勘繰られるかと冷や汗が出たが、あっさりと通されて気が引けた。守衛さんは親切にも母屋を通さずに抜けられる道を教えてくれたので、たぶんこの人はクビになるのだろうな、と思いながら御礼を言って歩き出してから、振り向いた。守衛さんはもうこちらを見ていなかった。
転びそうになりながら、わたしは息を切らして走った。丹精された、というよりはほとんど除草の手間のない木ばかり並んだ庭園を抜け、裏庭から離れに回り込む。離れ、というよりそこは温室のようだった。ガラス張りのサンルーム。人影。ひょろっとしたあの背は、あの少し撫で肩気味の輪郭は。
「勝郎くん!」
声を掛けると、勝郎くんは唖然とした顔で立ちあがった。絵を描いていたのだろうか、膝に置いていたスケッチブックがばさりと音を立てて落ちる。
「どうしたの、さっちゃん。どうやってここまで来たの」
「電車に乗ったの。はじめてだったけど親切な人に教えてもらったの。それから交番で道を聞いて、守衛さんにここだって聞いて」
「なんだか聞いてばっかりだね」
おいで、と勝郎くんはわたしの腕をひいた。久しぶりの匂いをいっぱい吸い込む。まだたった数日しか離れていないのに、どうしてこんなに懐かしく感じるのだろう。
「光造さんが出してくれた……わけはないよね。どうしたの、家出してきちゃったの?」
「そうかもしれない。お母さんに嘘ついてきた。赤ちゃん、堕ろしてくる、って」
口に出してから、そうか勝郎くんは知らなかったんだ、と気づいた。当たり前だ。わたしだって、あの時医者に言われて知らされたのだから。声が掠れているのは、走ってきたせいだけじゃない。ひゅうひゅう、と呼吸を整えている間、勝郎くんはすこし怒ったような顔をした。
「さっちゃん、赤ちゃんがいるの?」
頷く。勝郎くんは難しい表情は崩さずに、はあ、と大きくため息をついた。
「大事にしなきゃいけないのに。ここまで走ってきちゃったの?」
だめじゃない、と勝郎くんはわたしを叱った。ひとが一大決心をして訪ねてきたというのに、なんだというのだ。なのに嬉しいのは、どうしたっていうのだ。勝郎くん。勝郎くん。なんでもいい、会いたかった。昨日はじめて離されてから、ずっと掌の熱のことだけ考えていた。
だからわたしは勝郎くんの手を握った。勝郎くんの手はもう震えてはいなかった。
「おれ、光造さんと話したよ。駄目だった。うちの親も、そう言った。でもさ」
君がもし、産みたいって言ってくれるなら。あの家にいて、それが出来ないというのなら。おれの家族を作ってくれるなら。
「一緒に行こう。どっか明るい街に行こう。三人で一緒に暮らそうよ」
勝郎くんは膝から落ちたスケッチブックを拾い上げて、見せてくれた。描かれているのはわたしだ。満面の笑み。つんとすました顔じゃなくて、くだらない話をして、笑っているときのわたしの顔。ありもしなかった未来を一緒に夢見ていたころの、たわいない、睦み合っていたあの頃のわたしの絵。
そして、その横に描いてあるのは勝郎くんと小さな女の子だ。女の子はどこか生意気そうな、勝ち気そうな顔をしている。でもどこか賢そうで、かわいくて。
「ね、一緒に行こう。さっちゃんがよければ、おれ、君と家族になりたいよ」
わたしは頷いた。頷く以外になにも出来なかった。勝郎くんはあの困ったように眉をハノ字にする顔で、わたしの髪を撫でてくれた。そのやさしい感触が何よりも熱くて参ってしまった。
だって、わたしはこの人と家族になりたかった。
Last post→9/11公開
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※この物語は2011年9月11日に上演されるJunkStage第三回公演の物語を素材としています。(作・演出・脚本 スギタクミさん)
※このシリーズは上記公演日まで毎週月・木曜日の2回公開していきます。…という予定でしたが、公演開始日までに終了させることができないため、今週は毎日更新です。申し訳ありませんが、いましばらくお付き合いください。