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2011/09/07

母が明るく声を掛けて、父がただいまと応じる。いつもよりも少し楽しそうな上ずった声。追い詰められたような気持で振り向くと、父はちょうど帽子を脱いでいるところだった。

「ただいま」
「おとうさん、」

おかえりなさい。不思議なことに、わたしの声はふるえなかった。つるり、と滑り出るように声が出た。父は少しだけ眉をひそめたように見えたが、勝郎くんがお疲れさまでしたと頭を下げたので、笑顔を作って勝郎くんの肩を叩いてみせた。切り替えが上手なのはさすがに仕事を沢山抱え、清濁を上手に操作できる父らしい。

「出来たんだそうだね。完成おめでとう。嬉しいよ」
「いえ、こちらこそ心行くまで描かせていただけて光栄でした。ご覧いただけますか」

こちらです、と勝郎くんは椅子を引いて父を座らせた。一番よくあの見取り図が見える場所に、父の椅子が据えてある。近頃老眼の気のある父は一瞬遠くに目を眇め、そしてよく見ようとするように大きな身体を乗り出した。

「もう、あなたったら。絵は逃げないわよ」

それより食事にしましょう、と母が間髪いれずに食事の乗ったワゴンを押してくる。わたしも身を翻して後に続いた。温かな湯気がやや細くなっているけれど、まだ並べたお皿は温かかった。

今日のメニューは母とわたしの二人がかりで作った苦肉のメニューだ。時間をおいても温かいまま食べられるようにと選んだ壺焼きのパイ、あたためなくてもいいという理由で作ったパニーニのオープンサンド。玉ねぎとサーモンのサラダ。
この家に嫁いで以来ほとんど料理をしなかった母と包丁すらろくに握ったことのないわたしを、シェフは文字通り冷や汗をかいて見守り、丁寧に、しかし、しっかり指導してくれたから、見た目はちょっとしたレストラン程度の格好が付いている。

「今日のご飯がいつもと違うの、あなた気付いた?」
「まさか……お前たちだけで、これを?」

父は驚いて眼を見開き、母は得意そうに肩をそびやかして、勝郎くんはあまくあまく眼を細め、わたしを見た。それで、急に恥ずかしくなった。勝郎くんに手料理――レタスをちぎったり辛子をパンに塗ることを料理と呼んでいいなら、の話だけれど――食べてもらうのは、初めてだったから。

「勝郎くん、用心しろよ。この二人はうちでは全く料理をしないんだ」

からかうように父は笑い、先ほどまでの奇妙な沈黙を破るように明るい雰囲気で食事会は始まった。父は快活だった。押し出しのいい背中を震わせて、勝郎くんと出会ったときの話や今回の制作の様子を大げさな身振りで表現しようとして、母の微笑をさそっていた。勝郎くんも父の求めに応じて苦心した部分や屋敷の中でもっとも面白かった創作品の話をして、場の空気を盛り上げた。
わたしは、ただひたすら自分の目の前の食べ物を食べ続けることに集中した。幸いなことに、わたしたちの手料理はシェフの味に慣れた舌には少し物足りなかったけれど、難癖をつけるほど酷くもなかった。もちろん、それは母とシェフの手柄ではあるけれど。

父と母は、すっかり打ち解けあって寛いでいるように見えた。茶目っ気たっぷりに笑いかける父に、頬笑みでこたえる母。不意に先に聞いたふたりの出会いのことを思い出した。お母さんはお父さんを許した。お父さんは、お母さんを愛した。ドラマチックではあるけれど、規模さえ変えればありふれていそうな恋の物語。でも、それは目の前の二人に起こったことなのだ。どこにもない物語。唯一、二人だけが共有する物語。

では、わたしと勝郎くんの物語は?
お姫さまが絵描きに恋をしました。ところが、絵描きは本当は王子様だったのです。
これではまるで童話のあらすじのようだ。これがわたしと勝郎くんの物語。ただ、この物語にはまだ結末が出ていない。王子様とお姫様が結ばれて、幸せな家庭を築くとか、玉のような女の子を産みましたとか、未来のことは全く白紙の状態で、そもそも結婚出来るかどうかも分からない。
でも。

(それでも、わたしはこの白紙を埋めていきたいんだ)

隣でひどく上品にサーモンを食べている勝郎くんを見て、わたしはそう思った。テーブルの下で、わたしは時折勝郎くんの手を探した。勝郎くんはいつでも手の届くところにいて、わたしを安心させてくれた。大丈夫、大丈夫。そう言い聞かせるように、分け合った熱はじんわりと揺れる心を慰めてくれた。
だから、震えている場合じゃない。不安だらけだけど、許してもらえなくても、わたしは勝郎くんと未来を描きたいんだ。

わたしと勝郎くんの視線が、今、かちりと噛みあった。

next  vol.13→9/8公開

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※この物語は2011年9月11日に上演されるJunkStage第三回公演の物語を素材としています。(作・演出・脚本 スギタクミさん)
※このシリーズは上記公演日まで毎週月・木曜日の2回公開していきます。…という予定でしたが、公演開始日までに終了させることができないため、今週は毎日更新です。申し訳ありませんが、いましばらくお付き合いください。

2011/09/07 09:10 | momou | No Comments