« 屋久島のアートは心である(公演連動コラム) | Home | Junk Stage舞台までもう少しですね。 »
――絵が出来れば彼は出て行ってしまう。
その事実に気づいた日、わたしは一睡も出来なかった。
考えてみれば当たり前の話だ。ここはわたしの家で、勝郎くんの家ではない。勝郎くんは絵が出来るまでの期限付きの客なのだということを思い出すと、頭の芯が冷えていくような気がした。
今時珍しく携帯電話さえ持たない彼は、この家に来てからどことも連絡を取っていない。うちの電話を使っているのもみたことがないし、買い物にも出ていない。必要なものはお手伝いさんや父が買ってくる。それで満足しているらしく、勝郎くんから不平めいた言葉は出てこない。こんな人攫いのような真似をしてご両親が心配していないかと、母が父と話しているのを聞いたこともあるけれど、本人は大丈夫ですの一点張りでかわし続けている。
幸いなことに、キャンバスはまだ白いままだ。それでもアウトラインは出来ているらしく、部屋には描きかけのスケッチが幾枚も幾枚も散らばっている。そのうちの一枚を手にとって、破り捨てたい衝動を必死でこらえた。こらえられたのは破ったところで勝郎くんの頭の中のイメージが消えるわけではないと理解していたのと、残せる気配なら全て残しておきたいとどこかで冷静に考えていたせいだった。死を悼む人のように、いつのまにか握り締めていた勝郎くんのスケッチの皺を丁寧に伸ばして、わたしはほかのものと合わせてキャンバスの脇に重ねた。
「ごめんね。捨てようと思ったんだけど、散らかしっぱなしで」
「……捨てるなら、これ貰ってもいい、かな」
「いいよ。そんなものでよければ」
勝郎くんは気前よく、揃えられた紙の束をわたしにくれた。わたしはそれを丁寧に紙ばさみに閉じた。勝郎くんが与えてくれたものは決して少なくないけれど、これは特別な贈り物として今でも大事にしまってある。
「ねえ、勝郎くん。ずっとここにいて、おうちのひと、心配しない?」
胸に紙ばさみを抱いたまま、わたしはひどくしょぼくれた顔をしていたのだと思う。
筆を止めた勝郎くんは寂しそうに笑って、わたしの髪を撫でてくれた。柔軟剤でふんわりさせたジョーゼットの布みたいに、やさしくて滑らかな手をしていた。
「さっちゃんはいいね。素敵なご両親と仲良く暮らせて」
「勝郎くんは違うの?」
「そういうわけじゃないけど。おれは家族の中で浮いちゃってるからなあ」
勝郎くんは筆まめのある指先をそっと放して、がりがりと頭を掻いた。
「うちには出来のいい兄貴がいてさ。父さんも母さんもそう。社会的な生活をする力っていうのかな。必要だ、必要じゃないって線を分けるとか、優先順位をつけて切り捨てる、とか、そういう能力がすごくある人たちなんだよね」
「実利的なんだ」
「うん。だから、絵なんて描いてどうするんだ、って小さいころからよく言われてた。無駄だって。そんな暇があったら算盤でも弾いてろって、必要ないことに時間を割くなって、怒られてばっかりだった」
だから、おれ、家族はいるけど帰るところはないんだよね、なんて眉毛をハの字にしてみせるから、たまらなくなってわたしは勝郎くんに抱きついた。うすっぺらい身体に腕をまわして、あったかい胸に顔をうずめて、犬みたいにうーうー唸った。勝郎くんはわたしの身体を抱きしめて、ありがとうね、と囁くように応えてくれた。首元に触れた短い髪に、その髪から薫る絵具の匂いに、なにかを我慢しているような声に、返せるものはなくてただひたすらに抱きしめる腕に力をこめた。
そして、わたし自身も初めてのことながら恋に落ちてしまったのだった。
—
next vol.7→8/29公開
—————————————————————–
※この物語は2011年9月11日に上演されるJunkStage第三回公演の物語を素材としています。(作・演出・脚本 スギタクミさん)
※このシリーズは上記公演日まで毎週月・木曜日の2回公開していきます。