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人はどのようにあかりを携え、それぞれの人生を歩いていくのだろう。
ある者は自分の力を信じ、煌々とあかりを灯して目標に向かって突き進む。
ある者はあかりに覆いをかけ、照度を落としてくらげのように人生の荒波を漂っていく。
また、ある者は挫折や障害に見舞われるうちに、やがて自らあかりを吹き消してしまう。
夜警としてヘルシンキの労働者地区に暮らすコイスティネン(ヤンネ・フーティアイネン)は
蛍のように儚いあかりを灯しては消す行為を繰り返すやるせない日々を送っていた。
家族も友人も恋人もなく、相手になってくれるのはソーセージ屋の女アイラ(マリア・ヘイスカネン)だけ。
そんなコイスティネンにマフィアのボス、リンドストロン(イルッカ・コイヴラ)が目をつける。
リンドストロンは宝石店の暗証番号を聞き出すために
自分の愛人ミルヤ(マリア・ヤルヴェンヘルミ)をコイスティネンに接近させる。
チェーンスモーカーのコイスティネンは、ミルヤとデートしてはタバコをくわえ、
希望のあかりを灯すが、体よくあしらわれては、希望のあかりも、タバコももみ消してしまう。
映画はテーマを描写で表現するアートだが、
この『街のあかり』を通じて監督アキ・カウリスマキのアートに対峙する姿勢は徹底している。
カウリスマキは俳優からセリフを極力奪い取り、代わりに小道具を使って喜怒哀楽を浮き上がらせる。
そのカウリスマキ・カラーを象徴させるシーンがある。
ある日、コイスティネンはパブの前に犬が一週間も繋がれたままなのに気づく。
そばにいた少年(ヨーナス・タポラ)が飼い主について「強そうだよ」と感想をいうが、
コイスティネンはアドバイスを軽く受け流したまま店に入っていく。
屈強そうな3人組が飼い主だとわかるとアルコールの勢いをかりて文句をいいにいき、
殴られてあっさりと引き下がる。
顔から血を流して戻ってきたコイスティネンに少年と犬が注目すると、
彼はバツが悪そうに目をそらせて去っていってしまう。
何気ないシーンの中にコイスティネンの生きざまが凝縮されている。
繋がれたまま吠えることさえしない打ちひしがれた犬は彼自身でもあるのだ。
気弱そうな少年は彼の消えそうなあかりに似ている。
弱すぎるあかりが思慮を奪い、
いつも自分自身が傷つくだけで結局、誰の役にも立てず、何一つ得られない。
障害が立ちはだかるとすぐにあかりを吹き消して退散してしまう。
コイスティネンは自分もミルヤも、誰一人愛したことなどないのだ。
彼をすっぽり覆っているのは愛の対極にある無関心だけだ。
老練なカウリスマキは一切セリフの力を借りずに、
コイスティネンの儚げなあかりの手元を鮮明に照らしだしてみせる。
コイスティネンのあかりを陰らせる無関心という病をカウリスマキはどう料理するのだろう。
マフィアの姦計にはまり、宝石泥棒の冤罪をきせられても、
すべてを失った彼にアイラだけが好意を寄せても、
一向にコイスティネンの心に変化は訪れない。
我々を苛立たせるだけ苛立たせておいて、
カウリスマキはラストでようやくその秘伝のレシピをのぞかせてくれる。
やっと見つけた皿洗いの仕事も奪われたコイスティネンは、
リンドストロンにナイフで切りつけるが、逆に手下に瀕死の重傷を負わされる。
港にうずくまるコイスティネンのところへ少年と犬がアイラを導いていく。
倒れこむコイスティネンにアイラが「死なないで」と手を差し伸べる。
コイスティネンは「ここでは死なない」と声を絞りだすと、差し出された手を握りしめる。
簡潔なセリフと演技の背後で、無関心という病が癒え、愛というあかりが音をたてて灯る。
この隠し味はカウリスマキにしか出せない。