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生まれて初めて訪れた産婦人科は、予想に反してとてもキレイな場所だった。
誰にも相談せず、一人で医者を探し、いろいろの手続きを済ませ、わたしは父親となるべき男には何も言わずにただ別れを告げた。
修羅場にはならなかった。儀礼的に引きとめの言葉は発せられたけれど、わたしが固辞すればしいて引きとめられはしなかった。そんなものだろう、と思っていた。
だから、傷つかないはずだった。
――毎年、6月になると社内ではなんとなく華やいだような空気が漂う。
この歳になれば同期が、ということはないけれど、部内の若い社員が必ず1組は結婚するからだ。スピーチを頼まれた上司が面倒そうに、しかし嬉しそうに頬を緩めるのを揶揄しながら、ランチの時間に何を着て行くか相談し合うのはとても楽しい時間である。誰が招待されたとか、誰が外されたか、なんて話題は意地が悪いだけに面白い。
「聞いた?あの子たち、出来婚らしいよ」「マジで?ありえなくない?」「いやホント。人事から聞いたんだもん」「じゃあ退社するのかな」「ありそう!」「仕事って感じじゃないもんね、あの子」……。
去年まではその輪に私も参加していた。面白おかしく当事者たちをからかって、表面上は真面目にお祝いの言葉を述べる。ああでもないこうでもないと勝手に邪推して面白がって。
でも、今年はただ場に混ざっているだけだ。
空気のように、場を乱さぬように、わたしはわたしに期待される返事を返し、相槌を打つ。
「でもさ、あの子最近まで別に彼女いたっぽいよ」「何それ。二股?」「じゃないの? うちの取引先の人、見たって言ってたもの。もっと年上の女だったってよ」「二股とか最低じゃない」「でも若いからさー」「ああ、あるかもねえ」「怖いね」「人はみかけによらないってことでしょ」……。
そう、人はみかけになんかよらない。
優しそうな顔をしていた。誠実そうな顔をしていた。わたしは彼のことを好きになったわけではなくて、ただその雰囲気が好きになっただけだ。彼のまき散らす空気に寄っていたかっただけだ。幸せになりたくて、傍にいたくて、彼が欲しくて。でも別に、好きだったわけじゃない。彼と一生暮らしていきたかったわけじゃない。縛られたかったわけじゃない。だから一人で捨てたのだ。
なのに。
「どうしたの?顔色悪いよ」「具合悪いなら無理しないで医務室行っといでよ」
わたしはなぜ、今笑うことが出来ないのだろう。
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花言葉:私は幸せものです
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。